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悪妃が聞いたその声は
―――悪世の王妃と民は言う。
鐘が鳴り響いている。
まるで私を追い立てるように、一刻も早くその頂から引きずり下ろさんとでも言うように。
甲高く、鳴り責める。
処刑台へと誘う音を聞きながら、私は落とされるであろう自らの首に指先で触れた。
その時、ガチャガチャと金属がぶつかる硬質な音と、慌ただしい足音が合図無く部屋に飛び込んできた。けれど私は振り返らずに、格子状に刻まれた青い空の向こうにある鐘楼の鐘を見つめている。
来ると思っていたけれど。
実際来てくれると、嬉しいものね。
滲みそうになる涙を堪えながら、何とか平静を装う。
「なぜ……っ! なぜなのですっ!? なぜ貴女がこの様な目に合わねばならぬのですか……っ! これまで国の為に、身を粉にしてきた貴女が……っ!」
『王妃の間』と呼ばれる私室内。
優雅な金糸刺繍が施された天鵞絨(ビロード)の紅い絨毯の上で、若い青年は脇目も振らずに声を張り上げた。横目で見える白銀の甲冑を着込み跪く彼の顔には、濃い焦燥が滲んでいる。
私は少し息を吐きながら、格子窓越しに城下へ押し寄せる騎士らを見下ろし、本来ならばあの場所にいるはずの彼に顔を向けた。幼い頃から生真面目で実直な騎士は、寡黙な普段の表情をそぎ落とし、髪と同じ紫苑の眉を痛ましげに歪めている。
今までならば入ることは許されなかった王妃の間、私の部屋にいる彼の名はギルバート=ルデナ=アルシュダ。
この王国イルギアナでは至高の剣と呼ばれている武勇の男だ。
幾度となく戦地へ赴き勝利し、国に栄光と繁栄をもたらしてくれた我が国が誇るべき英雄。
……そして彼は、私が王妃となったあの日からずっと共に在り続けてくれた戦友でもある。
けれど今日ばかりは、私と彼は戦友であってはならない。
だって彼は―――この首を落とすべき立場にあるのだから。
「……仕方が無いのよギルバート。私は敵を作り過ぎた。元老院にも属する貴族達を糾弾し、王が迎えた諸国の側妃達も悉く追放したのだから……ああ、王を無視して勝手に他国と約定を交わしたのもそうね。故に、こうなる事は目に見えていた。それを承知で行ったのだから、この結末に悔いは無いわ」
この十年、自らが『勝手に』成した事を冷静に口にしながら、我ながらよくあれだけ動けたものだと思う。
引っ込み思案で親に命じられるがまま嫁ぐだけだった世間知らずの令嬢にしては、中々の変わり様ではなかっただろうか。
「それは……っ!」
ギルバートが、身に纏った甲冑をガシャリと打ち鳴らしながら、跪いた姿勢のまま私に詰め寄る。
紫苑の柔らかな髪を額の真ん中で分け、凜々しい紫水晶の瞳に苦渋を浮かべたその顔は、幼き日より見慣れたものではあれどやはり美しい。
ギルバートの形の良い唇から、ぎりぎりと歯を噛み締める音が響く。
優しく誠実な幼馴染みは、無実の罪で処断される私を見過ごす事が出来ないのだろう。
そうね。ギルバート。
貴方って、そういう人だものね。
だから、私は―――
「王妃が……っ! なさったことは! 汚職に塗れた上高貴族達の罪を暴き、王を唆し散財させ国を傾けた毒姫達を退けただけの、正当な事情あっての事ではありませんか……! 無能な王に代わり、貴女が国政の指揮を取ったに過ぎない!! なのに、なのにあの男は……!」
自らが仕えるべき主に憎悪の言葉を吐き出しながら、ギルバートは左手で腰元の剣を握り締め、憤怒で揺れる身体を押さえていた。
優しい幼馴染みはまるで自分の事のように、私が置かれている状況に憤ってくれている。
申し訳なく思う気持ちに反して、嬉しいと感じてしまう私はやはり、皆が言うように悪妃なのだろう。
「……俺と共に逃げて下さい、王妃。いや……オリヴィア」
「ギルバート」
跪いていた姿勢から、ギルバートがすっと立ち上がる。
本来ならば許しが必要ではあれど、今の彼にとってそんな『境』は必要無くなっているのだろう。
元より、十年前までは私達の間に必要なかった『境』だ。
貴族ではあっても気ままな中堅貴族の伯爵令嬢であった私と、侯爵令息であった……ただの幼馴染みだったあの頃には。
ギルバート。
わかっていた。知っていた。
貴方はきっと私にそう言ってくれるのだろうと。
けれど、それを受け入れるわけにはいかないの。
だって、だってね、ギルバート―――
「……ごめんなさい。それは出来ないわ」
「っなぜ……!!」
胸にある想いが零れないように、溢れ出さないように、細心の注意を払いながら王妃となって身につけた鉄の仮面で彼に告げる。
「駄目よ、ギル。幼馴染みだからって、貴方を巻き込むわけにはいかないわ。それに王は世論を味方につけてしまった。民の貧困を私のせいだと印象づけてしまったもの。彼らは私が死なない限り、奮起したまま静まる事は無いでしょう。そうなれば、今より多くの人が死ぬ。民が死ねば国が弱体し、やがて他国の侵略を受けるでしょう。イルギアナは確実に滅んでしまう。そうさせるわけにはいかないのよ」
「っだからと言ってっ!!」
ギルバートが、苦渋を滲ませたまま早足で私に近付き、両肩を手で掴む。
強い力にドレスの生地が幾つもの深い皺を刻み、その下の肌に指先が食い込むのを感じた。
「有り難う。ギル……貴方が来てくれたこと、ずっと私の味方で居てくれたこと、とてもとても嬉しかった。貴方がいたから、王妃となっても私は独りじゃないと思えた。本当に……感謝しているの」
「オリヴィア……っ!」
精一杯の笑顔で感謝を告げる。後に続く、決して告げることは無い言葉を飲み込んで、私は幼い時から見慣れた、そして憧れ続けた紫苑の髪にそっと手を伸ばし指先で触れた。
彼の髪に触れるのは十年振りだ。
今日だからこそ、やっとこうして触れられる。
そのことが、震えるほど嬉しい。
沈黙の騎士ギルバート=ルデナ=アルシュダ。
彼が喋らなくなったのが、幼馴染みが王妃となった日からだと知っているのは、一体何人いるだろう。
そして私が希代の悪妃と呼ばれる前、ただの令嬢であった娘時代を知っている人が、この国に何人いるだろうか。
私達は、互いの想いに気付いた時には既に、王妃と騎士になっていた。
「貴方の髪、少し癖があるのは……変わってないわね」
「っ」
懐かしみながら言った途端、ギルバートがきゅっと唇を引き結び、私の身体を胸に押し当てた。
頬に触れる彼の着る白銀の甲冑が少し冷たい。背中には、太く逞しい鍛えられた腕を感じた。もうすぐ死ぬ私にとっては、誰よりも、何よりも嬉しい抱擁に、かろうじてせき止めている感情が溢れ出しそうになり、ぐっと堪える。
「もう行って。いえ、行きなさいギルバート。貴方は必ず生きて。貴方はこの国に必要な人です。だから死んでは駄目よ。これは王妃となった幼馴染みからの命令で、願いです」
別れの日にしたのと同じように彼の背に手を回し、軽く力を込めて言う。
するとギルバートの抱擁も比例して強さを増した。
「なら、君は諦めると言うのか。何の非も無い、君には一切の罪が無いというのに」
「国という大きな入れ物の中では、そういう役割を持つものもいるわ。それが私だったというだけよ。そして貴方の役目は、生きてこの国を守ること。それは私の願いでもあるわ」
普段と同じく冷静さを取り戻した彼の声に、白銀の甲冑に頬を当てたまま瞼を閉じた。彼と交わす別れの抱擁はこれで二度目で、そして最後になるのだと胸の奥が熱くなる。
「……オリヴィア、悪いが、その願いは聞けない」
「え―――?」
見上げれば、美しい紫水晶の瞳と目が合った。
形の良い眉はぎゅっと顰められていて、同時にとんっとうなじの辺りに軽い衝撃を感じた。
瞬間、視界が紫苑から闇の黒へと暗転していく。
「―――俺がお側におります。この後も生涯、俺は貴女に仕えます―――」
意識が閉ざされる刹那、聞こえた声は確かに、これまで忠実に仕えてくれた寡黙な騎士のものだった。
唇に、羽根のように軽い温もりと、温かな雫を感じた気がした。
闇へと閉じる意識の中、たった一つの思いが浮かぶ。
ねえ、ギルバート。
私、貴方のそんな声、『初めて』聞いたわ―――
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