ようこそ、ここから先が地獄です

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 佐竹茜(さたけあかね)が朝起きてまずすることは、居間に備え付けられた仏壇に手を合わせることだ。それから簡単な朝食を済ませて、薄暗い家内を掃除して回り、二階にある子供部屋でようやく仕事を始める。  ピンクや白を基準にしたかわいらしい調度品の揃った部屋。娘の小学校時代から使われていた机の上と周辺には、パソコン、モニター、タブレット、スキャナ、大型プリンタとやや武骨な機器が揃っている。  茜の体には小さい椅子に腰かけて、今日も仕事を開始した。  茜の仕事はデザイナーだ。ご近所さんたちの間ではそういうことにしてある。  正しくはレタッチャー。撮影された写真の修正、加工といったフォトレタッチを行う仕事で、主な取引先は近隣で経営している写真館である。  ご近所さんたちがなにかしらの記念撮影に利用するのも近くにある写真館のどれかになる。だから仕事として修正指示と共に茜の元に送られてくる写真には、見知った顔が写っていることがままあるのだ。  隣近所のママさんたちも、自分の顔のシミやしわを茜が細々(こまごま)と修正しているなどとは知りたくないだろう。これらの修正指示が客側の希望であるのならなおさらだ。  それに写真とは、普段思いもよらない姿を写したりもする。  例えば近所ではオシドリ夫婦で通っている旦那さんの方が、奥さんとは違う女性と仲睦まじく腕を絡めた記念撮影をしていたり。  例えば仲のよいママ友同士が子供にお揃いの衣装を着せて、一歳祝いの撮影をして。そして後日、その中の数人が全く別のかわいらしい衣装で、撮り直しをしていたり。  表向き平和な近隣社会の、その裏側を覗いた気分に茜はなるのだ。  今日もパソコンを立ち上げて、仕事を確認する、いくら相手が近くの写真館とはいえ、仕事のやり取りは基本メールだ。今日は二件の新着メールがあった。  一方は商店街にある昔なじみの写真館。こちらは先日納品した写真に関するお礼だった。  もう一方は国道沿いにある全国チェーンのスタジオ。写真データと一緒に修正の指示内容と納期希望日が記載されていた。  添えられた写真データを確認してみれば、七五三の撮影らしく、着物姿の男の子が緊張しきった顔で写っている。全部で十枚。男の子の顔には小さなかさぶたができてしまっていて、修正指示はこの傷跡を消して欲しいというものだった。  茜は納期希望日を了解する旨のメールをスタジオに送り返すと、データを自分のパソコンに落とし込む。さっそく作業にかかろうと画像編集ソフトを立ち上げて、しかし、その手が止まった。  ゆったりと椅子から立ち上がり、ふらふらと背後の本棚へと向かう。ずらりと並ぶアルバムの一つを手に取って表紙をめくり、娘の七五三写真のページで手を止めた。  千歳飴の袋を手に、ピースサインをした娘、葵の姿に目頭が熱くなる。  茜の娘、佐竹葵(さたけあおい)が死んだのは半年前だ。十四歳だった。  原因は交通事故。轢いた車のドライブレコーダーには、横断歩道もない大道路に突然飛び出す葵の姿がはっきりと映っていたという。  過失は娘にありと、加害者の第一審は無罪。他に目撃者もなく、ドライブレコーダー以外に当時を証明するものはない。娘を突然失った悲しみ、その原因を誰にも問いただせない苦しみ、理不尽を叫ぼうにも、そもそも理不尽だったのは運転手側だろうと世間の目は冷たい。  泣いて、悲しんで、苦しんで、恨んで。ネットで支援者を募り、裁判でも必死に訴えて。  なんとか、なんとか娘の名誉を、あの子の正しさを、あの子が正しかったことを。  葵があまりに可哀想で、自分の娘が哀れで、少しでもあの子の魂を救ってあげたくて、親として救われたくて。    茜だってわかっている。こんなものはただの身勝手だ。降ってわいた不幸を信じられなくて、しかもその責任は死んだ娘にあるなどと受け入れられなくて。  逃がしどころのない感情は暴走するばかり。自分の収めどころがわからないのだ。  気が付いたら昔からの友人も、夫ですら茜から離れて行ってしまった。    レタッチャーの仕事は、元々生活の足しになればと始めたものだが、この家に一人残された今となっては立派な本業になってしまっている。  ただ時折、誕生日や成人式などの成長を祝う写真を見ると辛くなる。  葵が生きていたら、今頃は十五歳の誕生日を迎えて、中学卒業と高校入学に向けて色々準備をしていただろう。  特に卒業式はとても楽しみにしていたのだ。葵が通っていた中学は私服校で、卒業式用に一年前から気に入る卒業袴を探し、レンタル契約を決めていた。茜だって、撮影のためにカメラを新調したのだ。  もう、葵が卒業袴を着ることはない。これから先のありとあらゆる記念日や、日々の何気ないひと時も、アルバムの中の写真が増えることはないのである。  茜はアルバムを閉じだ。部屋の中は薄暗い。家全体がこの有様である。  カーテンが閉め切られているからだ。ここいらは大きな住宅街で、家の中にいても日中は常に外から子供たちの声が聞こえてくる。せめてその姿が視界に入らないようにしているのだ。    もう、今日は仕事を続ける気にはなれなかった。アルバムを元の位置に戻すと、パソコンを閉じる。納期日までは余裕があるし、小さな傷なら修正に時間もかからない。  葵のベッドに移動して腰かけると、せめて気晴らしにならないかとラジオをつけた。    『○○県××市にある民家で火災があり、この家に住む八十代と思われる女性が』  『□□小学校の集団食中毒事件は、未だ保護者の間で動揺が広がっており』  『小学生の間で、危険な度胸試しゲームがブームとなっており、中学生にも広がりをみせています。これから迎える冬休み、さらに増えるものとドライバーは危機感を募らせており』  どこもかしこも暗いニュースばかりだ。茜はラジオを切ると、ベッドに体を折り曲げるようにして横になった。もう、このまま寝てしまおう。
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