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九、夜須礼(やすらい)
茨木が大江山を旅立ってから半年を過ぎようとしていた。寺に預けられていた鬼熊はすっかり体を回復していたが、過ごして来た歳月の様々な記憶が朦朧としている。今日も暖かさを増して来た陽射しの下で、茫然と境内の庭石に座っていた。
「鬼熊殿、今日もここにおられますか」
この寺の住職に話し掛けられても鬼熊は振り向くこともなかった。まるで庭石に同化したかのごとく微動だにせず一点を見続けている。
「茨木様に頼まれたお方ですから無体な扱いはいたしませんが、その茨木様が都へ行かれてからどうなされたのか、何の音沙汰も御座いません。さて、これからはどういたしましょうか」
鬼熊は住職の話に耳を傾けながらも、必死に記憶を呼び戻そうと脳裏を弄るように辿っている。だが、いくら足掻いてみても、そこに見えるのは青一色の景色のみであった。
「大江山のめぐみはみんな都へ持って行かれており、この寺の財も糧も心細くなり掛けております」
住職の愚痴のようにも聞こえる話が続いていた。
厳しい冬を乗り越え、この山里にもさわやかな風が吹き渡っている。境内の片隅に植えられた桜木の小枝に咲く花もそよいでいた。その時、小枝の花より数枚の花びらが飛び散り、鬼熊の見つめている視界の中に舞い落ちた。
「おっ、花びらか」
鬼熊の声を聞きとめた住職が、思わず手にしていた鉦鼓を落とした。
石畳の上に落ちた鉦鼓が、けたたましい金属音を響かせている。その音に誘われるように、鬼熊は振り向いた。
「何か思い出されましたか。この鉦鼓は鬼熊殿がお持ちになっておられたもので、今日はお返ししようと思い持って参りました」
住職が、あわてて落とした鉦鼓を拾い上げながら話している。
「ご住職、有り難う御座います。今し方、青一色の中で桜木より薄紅に彩られた花びらの舞い散る景色が浮かび上りました。けれど、それが何処で見た景色なのかが思い起こせません」
「鬼熊殿は、お館様の命を受けて都に遣わされておられましたので、都の景色かも知れませんな」
「えー、都ですか」
今の鬼熊の脳裏には都での記憶が失われ、住職の話しが思いも掛けないことのように聞こえた。
「大江山のお館様や童子の皆様が、疱瘡の元凶と名指しされて都の軍勢に攻められました。激しい戦の後で首を討たれており、今、都に行けばその生き残りとして殺されることになりましょう」
「そうですか」
その後、鬼熊はこれ以上に記憶が戻ることは無かった。住職に都のことを問うても、何処で何をしていたかはわからず、悶々とした日々を過ごしていた。
そこで、夏を迎えようとするころ、鬼熊は寺を出ることにした。
「ご住職、長い間、お世話をお掛けしました」
「いよいよ出掛けられますか。この寺も秋まで持ちますかどうか、拙僧もその内に去ることになりましょう。ただ鬼熊殿、くれぐれも申しておきますが、今は都へ近づくことはなされませんように」
「わかりました。数年は、山に籠り大江山の仲間の供養をしたいと思っています」
寺を出た鬼熊は、丹波と若狭の国の境に連なる峰々を歩んでいた。そこには所々で昔に見た景色を思い出している。住職から聞かされた大江山のことや、お館様や童子達のことで、何とか己の生い立ちと己が何者であったのかはわかり掛けていた。それ故なのか、この峰道にあった岩場に登り天空を眺めていると、石熊らの笑顔が雲の狭間に浮かび出て来るようになった。
「オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ、
オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ、
オン バサラ クシャ アランジャ ウン ソワカ、
…、…、…」
岩場の頂に座った鬼熊の口元から、ひとりでに蔵王権現の真言が漏れ出している。これから己は何をするべきなのか。未だ朦朧とした処が残る脳裏の中を、必死になって探し求めていた。
それから数度の冬を越した春先、鬼熊は都を目指して歩いていた。そこで何があったのか、どの様な暮らしをしていたのか、まったく思い出すことが出来ないでいる。ただ、大江山のお館様や童子達が、疱瘡の元凶とされ都の軍勢に討ち果たされたこと。それと、一瞬ではあったが、思い浮かんだ桜木より舞い散る花びらの様が、都での足掛かりになっていた。それで、鳥や獣が住処に戻ろうとする本能を示すように、鬼熊は何かを求めて都へ向かっていた。
都では、源頼光が大江山の鬼王の征伐を行った年から数年を過ぎた春になっていた。疫病の元凶とされた鬼の記憶が薄らぎ、人々は巡って来た花の季節を楽しんでいる。船岡山の北となる紫野には、疫病の御霊会を執り行うため新たに堂宇が建てられた社がある。その社には、疫病から身を守り息災に過ごすことを願う人々が、花見を兼ねて参拝に訪れている。参道の脇には桜木が並び、暖かさを増した陽射しに誘われるように満開の花を咲かせていた。
そこには、花が散り始めるころより、みすぼらしい風体をした男がいずこからか現れていた。長く伸びてしまった髪の毛の下には光を失った虚ろな目があり、頬がこけた顔は無精ひげで覆われている。身に着けている袴や衣は、あちこちが擦り切れ薄汚い色に変わっていた。ただ、桜木から舞い散る花びらと、男の崇める堂宇が疫病を鎮めるための社であることに、こだわりを感じさせている。また、鬼を真似ているのか頭に二本の小枝を蔓で縛り、あたかも鮮血で染められたような真紅の布を首に巻いた姿が、男の意思を現しているようであった。この日も桜木の下では胸の辺りに吊り下げた鉦鼓を打ち鳴らし、なにやらわからぬ語りと舞を踊っていた。
「おい、あの男、また来ておるぞ」
ここの地の者の間で、この男のうわさが広がり、何をやっているのか、何のためにやっているのかと話されている。
「昨日は、この上に住んでおる頭が、この男に阿古也様でないかと聞いたようじゃ」
「阿古也様なら、わいも知っとるが、船岡山の西の辺りで炊き出しをしておった坊主頭の聖や」
「その通りやが、頭の話では、この男の記憶が無くなっておるようで、姿から見ても何もわからんようじゃ」
「確かに、髪の毛はバサバサに生えとるし、頬もこけとって、このやつれた薄汚いかっこではわからんわな」
「わしも知らん振りをして側に寄って聞いていたら、鬼にモガサは知らんとか、鬼に横道はないとかゆうておるんじゃ」
「何や、それは」
「わしにも、ようわからん。ただ、鬼とゆうたら何年か前に源氏の殿さんが大江山で退治しよったがな」
「ああ、そやった、そやった。忘れ掛けとったが、確かモガサの元凶とか言われとったな。ほな、この男は鬼の生き残りかいな」
「そんなことは無いやろ。こんな汚らしい鬼はおらんさかい」
「そらそうやな」
「羅城門で討たれた鬼が最後じゃ」
「源氏の殿さんが大江山から戻ってきやはって、暫くしてからやったな」
「そうや、渡辺綱とゆうて、強いお武家はんが討たはったようや」
この話を聞いた時、無表情で踊っていた男の顔付きが一瞬変わったが、地の者にはそれがわからなかった。
だが、後ろで見ていた女は見逃さなかった。
「やはり、阿古也様」
呟くように小さな声を漏らした。
その女の放つ匂いに地の者の一人が気付いた。
「おー、ええ匂いがすると思ったら、七条の金貸しの五月はんやおまへんか。今日はお参りでっか」
「そんなとこどす」
この時、踊りが一段落したのか男が急に振り向いて、坂の上へ向かって駆け出して行った。
「少し、お待ちを」
五月は、あわてて男の後を追っていた。
そこに残された地の者が、呆気にとられて眺めている。
「何であんなええ女が、こんな乞食みたいな男に用があるんや」
「それも、ようわからん」
神社の参道から離れた坂の上で男が立ち止まっていた。ようやく追いついた五月は、向かい合って声を掛けた。
「阿古也様、もうお隠しになることはおまへん。うちは五月どす」
「わしは、阿古也などとは知らぬ」
男が、空を見上げながら吐き捨てるように言った。
「記憶を無くしているのは、本当でおましたか」
五月は、あの馬に蹴られ由良川の流れに沈んだ時に、このようなことになってしまったのかも知れないと思った。
そうであるなら阿古也の記憶を蘇らそうと、大江山での呼び名で話し掛けた。
「そうどすか。ならば、鬼熊童子」
すると、そむけていた男の顔がこちらに向き直った。
そこで五月は、問い掛けている。
「ここの地の者の話の中で、なぜ羅城門の鬼に気を止められた」
「あれはあの時に、小石を踏みつけただけだ」
急に現れた女に警戒しているのか、男がうそぶいている。
「そないゆわはるなら、うちの話をちょっとだけ聞いてもらえますか」
五月は、昔のことを思い出しながら語り始めようとした。その肩先の辺りには、参道脇の桜木より風に運ばれて来た花びらが舞いながら散り落ちている。一瞬ではあるが、男の視線が花びらに向いていた。
「あの大江山の戦が終わった後、暫くたってから茨木様が羅城門の辺りに来られていました。そこでは、お館様の首を取り戻そうとしたはったと思いますが、夜になると鬼の顔を描いた天灯を飛ばしておられました。町中では、これを見たと言う人の話で大騒ぎになっておりました」
大江山や茨木様、お館様、それに天灯の言葉に唆されたのか、男の眼差しに光が射して来ている。
「その頃、あの辺は骸の捨て場になっておりましたので、鬼も出る夜には誰も近づかんようどした。そやけど、騒ぎを収めるのに渡辺綱とゆうお武家はんが一騎で行かはりました。うちは陰から見てましたんやが、それはえらい戦いをされて茨木様の腕が斬り落されました。この後は、どないしやはりましたのかわかりまへんが、もう都には戻って来やはりませなんだ」
男が押し黙って話を聞いている。
「これで大江山の討ち漏らした鬼はみんな退治したと、源頼光はんは大威張のようどした」
男の目じりから漏れ出した涙が、一筋頬を伝っている。
「それで、鬼熊童子は、あの由良川の流れに押し流されてどこへ行かはりましたのかと、うちは精一杯探しましたんやけどわかりませなんだ。そこで、都に帰り頂いていたしろがねを元手として、金貸しをやりました」
男が何かを思い出したのか、溢れるほどの涙を流している。
「始めは婆様と一緒でしたが、その婆様が去年亡くなりました。それからは、しんどい思いもしましたが、生きてさえいればいつかはきっと会えると信じていました」
この時、男の唇がほんのわずかに動いた。それは、「サ、ツ、キ」と話したように見えた。だが、直ぐに背を向けた男が鷹ケ峰に向かって歩き出した。
坂道には風で散った花びらが、あたかも男を包むかのように舞い踊っている。その後姿を、五月はじっと見詰めていた。
それから数日して、花が散り終わると男が姿を見せなくなった。何処へ行ってしまったのかと噂話がささやかれ始めたころ、七条の金貸しの店が閉じられ五月の行方は誰にもわからなくなっていた。それは川面に散り落ちた花びらが五月の化身となり、あたかも黄泉の国へと旅立った精霊の姿を思い起こさせるようであった。
その後、紫野の神社では、疫病が風に吹かれ花びらと共に飛んで来ることを鎮めようと、夜須礼と称し参詣することが行われている。風流をこしらえ、鬼の姿を真似て舞う者を交え、鼓笛を奏し、口々にはやすらい花やと囃し立てながら歩んでいる。その行列の中には、どこか阿古也と五月の面影を残す人が加わっているようであった。
『抑 安會花神祭畧縁の由来を有増尋るに 往古人皇六十六代一条院の御宇長保三年(一〇〇一年)辛丑年世上ニ疫癘流行して万民の歎き大方ならず 然るに時の主上万民のなげ紀を不便に思しめし 忝も高雄山神護寺に仰阿りて悪魔降伏の御祈り是あるといえども 兎角御祈禱の障礙をなし其奇瑞少し 此上ハ疫神をいのり悪鬼をいさめんより外阿らじと 勅許阿りて賀茂の末社御園と申所ニ鎮座まし満寿疫神を乾ノ方紫野に勧請有て 今宮大神宮とあがり奉り 則里人集り悪鬼の姿と成て踊をなし聲々に安来花唱へ疫神をいさ免奉りしに 不思議や疫癘静りし(以下略)』
紫野川上町伝来「安會花神祭畧縁」
(京都発見 四 丹後の鬼・カモの神 梅原 猛著より転記)
それから、おおよそ百五十年の後となる久寿元年(一一五四年)の春、この参詣が都の住人の中で大きな流行となり、華美に過ぎると内裏から禁ずる命が出された。そこで、この命の裏には猛威を振るった正暦五年の疱瘡でその元凶とされ、皆殺しにされた大江山の鬼の祟りがあることを恐れたのではないかと、巷では独り言のように話をする老人がいたようである。
「鬼は疫病の元凶にあらずして、むしろ民を救うが本願なり。鬼に横道なし。なれど、貴人の我欲にて死せる鬼が祟り為す。花鎮めこそが疫病の抑えなり。これを禁ずるは鬼を恐れるに他ならず」
その老人の話を聞いた人が言うには、
「幾歳を生きて来たのかがわからぬほどに、縮まった体にしわがれた顔をし、伸ばした髪が全て銀鼠色であった。左手で錫杖を持ち、右腕は身に着けた足元まで届く薄汚い白衣で隠すようにしていた。けれど、歩み行く様を見ていると右腕は失われていたようであった。その話す言葉は、かねてから伝え聞いたことがある鬼の恐ろしさを語る風聞でなく、鬼と称して生きていた山の民の姿であった」と。
【参考資料】
・本朝世紀 国史大系第八巻 経済雑誌社
・日本紀略 国史大系第五巻 経済雑誌社
・日本の歴史⑥王朝と貴族 朧谷 寿著 集英社
・酒呑童子の誕生 高橋昌明著 中公新書
・図説役行者 石川知彦・小澤 弘編 河出書房新社
・図説京都府の歴史 責任編集者森谷尅久 河出書房新社
・平安京くらしと風景 木村重光著 東京堂出版
・物語京都の歴史 脇田修・晴子著 中公新書
・京都発見 四 丹後の鬼・カモの神 梅原 猛著 新潮社
・シリーズ日本古代史⑥摂関政治 古瀬奈津子著 岩波新書
・平安京図会 ㈶京都市生涯学習振興財団
・源 頼光 鮎沢 寿著 ㈱吉川弘文館
・別冊歴史読本 源氏部門の覇者 ㈱新人物往来社
・外伝 役小角 黒須紀一郎 ㈱作品社
・梁塵秘抄の熊野信仰 渡邊昭五著 岩田書院
・鬼の系譜 佐藤秀治著 ㈱文芸社
・日本文化の源流をたずねて 綛野和子著 慶応義塾大学出版会
・空也 堀 一郎著 ㈱吉川弘文館
・陰陽師 繁田信一著 中公新書
・美鋼変幻(たたら製鉄と日本人) 黒滝哲哉著 日刊工業新聞社
・大江町史
・国史大系第八巻(本朝世紀) 経済雑誌社
・国史大系第五巻(日本紀略) 経済雑誌社
・パンフレット 北原から大江山へ 福知山市農山村プロジェクト事業
「北原を元気にする会」
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