鬼の風聞

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二、陰陽師  月が替わると疫病の猛威が益々広がり、町中では左京にまで蔓延している。路頭(道端)のあちこちに骸が置き去りにされ、鳥や野犬も食に飽きているほどで、道を行く人々が鼻をふさぎながら急ぎ足で通り過ぎている。 『然而死亡者多満路頭 往還過客 掩鼻過之 鳥犬飽食空骸骨塞巷』                 本朝世紀 正暦五年四月二十四日(九九四年六月十日) 五位以上の官位を持つ者の中にも亡くなる者が多数出ており、国事の執り行いにも滞りをきたす有様である。ここに来て帝が疫病の元凶を占う命を、安倍晴明(せいめい)に下されることになった。  晴明は齢が七十歳を過ぎ、ここまでに陰陽寮の天文博士、蔵人陰陽師を務めていた。前の年には帝が病に苦しまれた折、執り行った禊祓で平癒されたことから正五位上に昇叙している。そのこともあってか帝の信を得て、また数々の卜占で貴族の中においても名声を得ていた。 「安倍晴明、先ごろより忌々しくはびこる疫病の祟りの源を占うべし」 「ははぁー」 その命が内裏の清涼殿の廂(ひさし)に平伏していた晴明に、殿上の関白藤原道隆(みちたか)の嗄れた声で伝えられた。 殿上には、四位以上の貴族が着ることになる黒色の縫腋の袍に垂纓を付けた烏帽子を冠り、笏を手に持った公卿達が居並んでいる。その最奥に座っているのが、この日も酒気を漂わせている道隆である。酒をこよなく好むがため、日々欠かさず朝方より飲んでいる。そのためか病を思わせるような痩せた頬になっていた。 〈ちぃ、関白殿は今朝もお飲みか〉  下がる間際に殿上を見やった晴明は、直ぐに見抜いていた。 それに対し、道隆の十三歳下で同母の弟になる権大納言藤原道長(みちなが)には、人を射抜くかのごとく鋭い眼差しを見た。未だ三十歳にも届いていないが、周囲の者を圧倒する威風のようなものが感じられる。その奥の御簾の向こうには、七歳で皇位に就き十代半ばとなり、後には賢帝と称えられる一条帝の気品が漂う御姿が窺えた。   帝の命を受けた晴明は、内裏より退出する間際に呼び止められる声を聞いた。 「晴明殿、お待ちあれ」  振り返ると、先ほどまで殿上にいた道長の姿があった。 「あっ道長殿、このような所にまでお出ましになられて」 「いいや、たいしたことではない。それより、此度は帝より直々の命を受けられて、さぞかし誉なことにござりますな」 「吾の所課とは申せ、まことに恐れ多いことで身が引き締まる思いにございます」  道長が、ふっと北西の空を見上げた。 「ところで、病魔とは古より鬼の為せる業と心得ておりまするがな」 「左様にございます。鬼や怨霊の類は、卜占の卦によく現れます」 「時に、丹波と丹後の国境の辺りで、鬼などと詐称し山を掘っておる輩がおるそうな」  道長にこのように言われ、晴明は眉間がピクリと動くのを感じた。 「おう、そのご様子では、ご存知であったか」  この筋で生業をしている晴明にとって、既に耳に入っていた昨秋の大江山でのことが、一瞬脳裏をよぎった。天灯と思われる物を空に飛ばし、人を脅すなどとは到底許すべからざることであった。ただ、怒りにも似た気持ちは、口に出せるものではなかった。 「そのようなうわさを、聞いたことがございます」 「そうか、何かと騒々しいことをしておるようである」  こう言うと、道長が目配せをして晴明の横をすり抜けて行った。  一条戻橋。この近くに晴明の屋敷がある。   この日、屋敷に戻った晴明は、夕餉を済ませてから館の一画に籠っていた。既に蔀戸が閉じられ、家人や召使も遠ざけ、過ぎ行く時に深々と身を委ねている。萌葱色の狩衣に烏帽子を冠り、板敷に座った直ぐ前には文机に式盤が載せてある。その脇には家紋である五芒星を取り巻くように彩られた螺鈿が、灯明の明りで怪しげな虹色に輝いている。地盤と呼ぶ方型の盤に天盤と呼ぶ円形の盤を組み合わし、それぞれの盤には十干や十二支などの字や印が記されている。その地盤の四隅と四辺には方位を示す門も記されていた。 式盤に向かい合った晴明は、先程より暦が示す運気や陰陽などを思惟の中に浮かび上がらせていた。にもかかわらず心の中の迷いが卜占の筋立てをかき乱している。まさにそれをさせているのは、子飼いの者から知らせを受けていた大江山の出来事であり、昼時に会った道長の言葉であった。 たかが修験者もどきの山師に、なぜ高名をはせた蜀の軍師諸葛亮孔明が作った天灯の技を使えたのか。禍々しい大江山の一党のことを考えていた。すると、再び盛り上がってきた怒りを伴った興奮が心を乱している。 あのような話を仕掛けてきた道長の狙いとは、何になるのか。やはり、あの山の鉱脈には、それほどまでの価値があるのかと思わざるを得なかった。 深沈として夜の帳に包まれた庭先には、日頃から使役している式神(しきがみ)が、一つ二つとさまよう様子を感じている。その一つが、音も無く蔀戸の隙間より入り込んで来た。影も形も無く、ただ晴明の頭上を揺らめくように漂いながら指図を待っている。やがて、灯明の明りが心細くなった時、晴明は暗索するかのごとく印を結んだ。すると、鴨居に付けていた人形(ひとがた)の霊符に式神が乗り移ったのか、はらりと空中を舞い飛んでいる。薄闇の中に白い軌跡を描きつつ地盤の天の門・乾の方(北西)に、ふわりと落ちていた。  数日後、内裏に参内した晴明は、清涼殿の殿上に向かい卜占の結末を奏上した。 「疫病の災いの源は、都の乾の方角(北西)にあたりて大江山という山があり、この山に住まう鬼王の所業なり」  殿上に居並ぶ公卿達が一様にうなずきを見せていた。その中で、道長だけに微笑みが浮かんだように晴明は思えた。  長雨が続く季節になったころ、内裏の近衛府に設えた陣座では朝から大江山の鬼王の取り計らいについて朝議が執り行われている。 「大江山の鬼王とは、いかなる姿をしているのであろうか」  天井を見上げて誰に話をするでもなく、関白藤原道隆の浮ついた声がした。  今朝も酒気を撒き散らしている道隆に応じる者が無く、たまりかねて内大臣藤原伊周(これちか)が答えた。 「陰陽師が疱瘡の元凶と申しましたゆえ、顔は赤く、恐ろしい形相をした姿と思われます」  この男、関白の後を継がそうと、二十一歳の若さで数人を飛び越して内大臣に据えた道隆の子息である。道長は、いずれけりを付けなければならない時が来ると心に留めていた。 「聞くところによりますと、鬼どもが天空を飛ぶところを見た者がおるようで、飛翔の技も心得た鬼神と存じます」  末席の参議の一人から声が上がった。  ここに居並ぶ誰もが大江山の鬼の真相を知る由もなく、道長はほくそえんでいた。 「道長殿は、どうお思いか」  道隆が問い掛けて来た。 「姿、形相はどうであれ国家へ大事をなす元凶は、禍根を残すことなく取り除かねばならぬと存じます」 「己が弟であるが、いつもながら豪胆なことである」 「道長殿のお考えの通り、国家の大事に処することが賢明と存じます。それに、姫が神隠しにあっている御仁もおられるようで、こんな奇怪を為せるのも鬼王の所業に違いない」  長兄道隆の温厚さに比べ、策謀家で冷酷な一面を秘める次兄の右大臣藤原道兼(みちかね)が話した。 「そうじゃ、姫の神隠しのこともあった。それで、この鬼どもを討ち果たす意気込みのある武士の心当たりはおありか」 「ここは関白の名において、お決めになるのが条理かと存じます」  道兼が、さらりと言い抜けていた。  その数日後、道隆が平致頼(むねより)、源頼信(よりのぶ)、平維衡(これひら)、藤原保昌(やすまさ)を近衛府に呼び出していた。陣座の庭先には折烏帽子を冠り、水干を着て括り袴を穿いた四人の武士が片膝をついて並んでいる。それぞれが一角の武名を成している武士であるが、あらかじめ聞かされていた此度の戦の相手には気が引けていた。 ふらつくように殿上の廂に立った道隆が、勢い込んで話している。 「既に聞き及んでおると思うが、都に災いをもたらしておる疫病の元凶が、大江山に住まう鬼王の所業と明らかになった。ついては、この災いを除くために軍勢を送りたい。そちらの中より、この軍勢を指揮する征討使となり鬼王の征伐に呼応する者はおらぬか」 ここまで一気に話したが、淫蕩の果て病に蝕まれつつある体からは覇気が失せ、勇ましい話の中身であるが語気は弱々しかった。  この様子を見透かしていたのか保昌が、はぐらかすように答えた。 「大江山の鬼王とは得体の知れぬ幻術を使うと聞き及んでおります。かような鬼どもに弓矢が通じるとは、到底考えられぬことと存じます」 「それはわからぬが、数を持ってすれば恐れるに足りず摂津、河内、山城より、万余の兵を集めることにしておる」  右端に座っていた致頼が、保昌に合わすように話した。 「万余の軍勢で当たっても兵は人であり、鬼神と合戦することは人力に及ばぬことと存じます」  この話を聞いた道隆がよろめいた。額よりつたう汗を拭おうともせず、次の言葉を考えているように見えた。だが、先に答えられた武士達の言葉に、見開いた目をして聞き入っていた。 「右に同じ」 「右に同じ」 「右に同じ」  脇でこのやり取りを聞いていた道長は、保昌に言い含めていた通り話を逸らしたことに頷いていた。このことがあってか道隆の病が深くなり、床に臥すことも度重なるようになった。
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