鬼の風聞

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鬼の風聞

一、疱瘡の祟り(たたり) 正暦五年(九九四年)春、京の都では花の盛りが過ぎ、散り行く花びらが風にもてあそばれるように舞い踊るころであった。 傾く陽にせかされるように、聖は大内裏より北へと向かう道を歩いている。身に着けた衣やその上に羽織った鹿皮の肩衣が、見るからに土埃にまみれ汚れが浮き立っている。にもかかわらず、胸元に吊るした鉦鼓と鹿角を杖頭に付けた錫杖が、聖の意思を示しているのか鈍い光りを保っていた。 やがて、聖は都の真北にあり玄武神が宿るとされた船岡山の裾野近くまで来ていた。そこで、今にも崩れ落ちそうな粗末な小屋を見ると、何か気に掛かるものを感じて立ち止まった。小屋の側には屋根ほどの高さに育った桜木から花びらが舞い散り、根元の所々に薄紅色の集まりを作っている。そこに風が吹き抜けると、残りわずかな生を楽しむかのごとく幾つかが震えるように動き出していた。その裏手の小川には流れ行く花びらが川面に浮かび、あたかも黄泉の国へと旅立つ精霊の姿に思えた。 「お父う 死ぬな」  突然、小屋の中から女の悲痛な叫び声が聞こえた。聖は小屋の内を覗きこむと、土間に莚を敷いて男が寝かされている。その側には、男の身に着けている土まみれの野良着の胸襟を掴み、必死に揺り動かしている娘がいた。男が顔を振り向けると、豆のような出来物が幾つも浮き出ている。その目がかすかに見開きこちらを見ていた。 「聖さまとお見受けいたします。良い時にお越し下された」  絞り出すようなかすれた声で男が話した。それは、まもなく忍び寄る死を覚悟しているかのように思えた。 「この娘をお頼み申します」  こう言うと男の目が閉じられた。小屋の中に一瞬の静寂が訪れると、男が事切れていた。娘がその胸元に顔を埋めるように泣き崩れている。頭の後ろに束ねた黒髪と橡色(つるばみいろ)の麻衣の背が小刻みに震えていた。 聖は娘の姿をじっと見つめながら手を合わせた。  九州筑前の国の大宰府より流行り始めた疫病(疱瘡=天然痘、モガサとも呼ばれる)が、いよいよ都の民にまで広がり始めている。この年は、悪霊の祟りを思い起こさせるほどの猛威にさらされる兆しを見せていた。 「モガサか、とうとうこの辺りでも流行り出したか。ところで娘子、お前には身寄りがいるのか」  父の死を前にして、泣き続ける娘に向かい聖は問い掛けた。暫くすると、娘が流れる涙を拭おうともせずに答えた。 「お母も去年死んだ。これでうちには、だれも頼る者がおらんようになった」 「名はなんと言う」 「うちは五月(さつき)と呼ばれている」 「そうか、それでは五月とやら、今日はもう夕刻になっておるんで父御の亡骸は、明日にでも仲間を連れて来て埋葬してやる。今宵は最後の別れをしておくことだ」 「聖さまは、どこのお方だ」 「わしか。わしは、この上(かみ)にある船岡山の西の麓で暮らしておる阿古也(あこや)と言う者だ」  これが、この娘との出会いであった。  この辺りは都の大内裏より北に向かう道が、菅原道真を祀る北野天満宮から東へ通じる道を越え、えんま堂と言われる小さな祠が建てられている近くである。古来、柏野(かへの)と呼ばれ、洛北七野の一つで紫野や平野とともに帝や貴族達の狩猟と遊宴の地であった。山際に茂る森林から広がる寂寞(せきばく)とした野には、所々に小さな集落が見られ周りで田や畑が耕されている。この道を更に北へと辿ると鷹ケ峰を越えて丹波へ続くことになるが、道の先には丘のように見える船岡山の西側に、埋葬地となる蓮台野(れんだいの)の殺伐とした小高い台地が広がっていた。 「阿古也様、お帰りなさいまし」  婆様の声がする後ろには、三尺(約90cm)もあろうか、大きな鉄鍋に粥が炊かれていた。その横には鉢を携えた人々の列が、焚き火の明りに照らされ夕闇の中でおぼろげに見えている。乳飲み子を抱く女や子の手をつなぐ女、その後には老若の男達が並んでいた。そのほとんどの者が身に着けているのは襤褸の麻衣で、髪が後ろ手に麻ひもや蔓で結わっている。土埃がこびりついた顔にも、親しみのある面差しが窺えた。 「今宵も、来てくれておるか」 「はい、阿古也様のお蔭で死なずに済むと、皆は喜んでおります」  列の先頭で子の手をつないだ女が、婆様に鉢を差し出しながら答えた。 数年前に都へ登ってから隅々まで歩きつくし、民の困窮を救うには、既に亡くなっていたが空也上人の行いに倣うことこそ大事と考えた。そこで、お館様の許しを得て一月ほど前から始めたのが、この地での炊き出しであった。この身は得度をすることも無い優婆塞(うばそく)であるが、頭髪を剃り鉦鼓を打ち鳴らし「南無阿弥陀仏」と唱えながら近傍を歩き巡った。すると、炊き出しにも誘われたのか人々が集まり始め、今では手伝いもしてもらえるようになった。 「町中の様子はいかがでましたか」  粥を柄杓ですくい、炊き出しに並んだ人が差し出す鉢に注ぎながら、婆様が問い掛けて来た。 「今年のモガサは勢いが強いようで、寂れておる右京に死人が多く、賑わいのある左京でも流行り出しておる。ここでは、疫病封じの陰陽師や祈祷師などが駆け回っておる」 「やっぱり西の方から流行っておますか。今年も、いよいよでますな」 「それに、大内裏の東にある貴族どもの屋敷周りにも死人が多く、骸を烏や野犬が喰い回しておる」 「それは、かわいそうなことをしよりますな。貴族屋敷にはあちこちの国から貢物を運んで来よる者が仰山おって、西の国から来よる者も多かったはずでおます」 「そのようだな」 「家人ならまだしも、雑仕や奴婢などではモガサに罹っておれば屋敷の外に捨て置かれますんやろな」 「わしも貴族屋敷から骸を運び出すのを見ておる。貴族という輩は、民のことを具のごとく扱い、役に立たなくなれば直ぐに捨て去るようだ。まるで己に降り懸かる蝕穢(しょくえ)ばかりを気に掛けておる」 「ところで阿古也様は大事おませんか」 「去年、少し寝込んだ時には世話を掛けたが軽くて済んだ。この病は一度罹ると、二度とは罹らんようだ」 「そんなようでますな」  婆様との話に区切りがつくと、阿古也は炊き出しに並んでいる人々に向いている。 「明日は町中に捨て置かれた骸の埋葬に出かけようと思っておるが、誰か手助けを願えませんか」 「阿古也様のお頼みでしたら、どこへなりともお供させてもらいます」 「わしも」、「わしも」と列の人々の中から声がして、たちまち七、八人が名乗りを上げていた。 「それでは、荷車は手配りしておきますので、皆様方は鍬か鋤を持って明日の明け方にここへ集まるように願います」  阿古也は、焚き火を囲んで粥をすする人々の輪の中に入った。周りを見渡すと華やいだ声も無く、ただ黙々と鉢の中の粥を口にしている。町中の暮らしに比べ都の外れに住まう人々は、定めとは言えこのように貧しいものかと思えた。それに加え先程出会った娘の父を亡くした悲しみの面影にも思いが沈む宵であった。  次の日の朝、阿古也の小屋の前には、婆様が炊き上げた飯で握った握飯の山が芳しい匂いを漂わせていた。そこには立ち込めている朝靄の中から鍬や鋤を持った人々が、次々に集まって来ている。婆様より握飯を手渡されると、むさぼるように頬張っている。そこで、それが一段落するのを待って、阿古也は人々に向かって声を掛けた。 「今日の行いで、皆様方に御仏の御加護が授かりますように。南無阿弥陀仏」  この言葉を聞くと、その場に座り込み、こちらに向かって手を合わせ頭を下げている人々がいる。御仏に縋らざるを得ない今の暮らしであるが、疫病の怖さをわかっていながらも手助けをしようとする人々を、阿古也は敬うように見ていた。 「今日のお頼みは、まずこの地より下った所で、昨日の夕刻に亡くなった人の埋葬を行います。それから、骸の傷みがひどい貴族屋敷の周りへと向かうことにします」 「わかり申した」 人々から頭(かしら)と呼ばれている男が答えた。  船岡山の西の麓から南へ下る道を、鍬や鋤を肩に掛けた十人ほどの人の列が荷車を従えて黙々と進んでいる。阿古也は、この列の先頭を歩き、突いている錫杖の金輪の音が歩みに合わせて金属音を響かせていた。西に広がる台地には木々に囲まれた一画に貴族の墓なのか、大層な五輪塔が木立の合間に望まれる。だが、その下手には野晒しにされた白骨がここかしこに散らばり、大小の盛り土が点々と作られていた。この辺りには人影を見ることも無く、朝空に舞う鳶が天空で大きな円を描いていた。   やがて、えんま堂の近くまで来ると、阿古也は昨日に父を亡くした娘の小屋の内へ呼び掛けた。 「五月とやら、約束通り父御の埋葬に参った」  父の亡骸の側に臥していた娘が驚いた様子で身を起こしている。顔を上げると、その目元には涙の跡がありありと残っていた。 「あー、阿古也様。お願いいたします」  か細い娘の声が、まだ父との別れを惜しむかのように聞こえたが、意を強くして問うている。 「小屋の側に桜木があるが、埋葬はここでよいか」 「はい」  聞き取れそうにも無い声であったが、娘のうなずく姿でこのように聞こえたと思い人々に呼び掛けた。 「皆様方、この小屋の住人は横手にある桜木の前に埋葬します」 「わかり申した。ほれ皆で穴を掘るぞ」  頭の声が、他の人々に伝わっている。  小屋の裏には小川が流れ、その岸辺に立つ桜木の前で土を掘り起こす鍬や鋤の音が静寂な野に響いている。遠くの集落にはか細い炊煙が立ち昇っているが、この辺りに人影はまったく見当たらず、まるでここだけに生気を感じとれるように思えた。 「小屋の中を見ると、食い物の跡が無いようだな。この握り飯を食うか」  阿古也は、竹の皮に包んだ握飯を懐より取り出して娘に差し出した。 「なぜうちに、こないなことまでするんだ」  不審に思う娘の言葉を、手で遮って答えた。 「お前は、空也上人を知っておるか」 「ああ、お父に聞いたことがあるが、貧しい人を助けた偉い坊様のことか」 「そうだ。御仏に縋るのに難しい学びや厳しい行をすることなく、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ往生すると教えられた」 「そういえば、お父は寝る前にいつもナンマイダ、ナンマイダとゆうていた」 「そのことだ。上人は教えを広められる時に布施を得ても、いつも貧しい人や病人などに施しを与えられた。そこで、わしはその教えや行いを聞いて、少しでも近づくことが出来ればと考えておる」 「そうゆうことか」  うなずいた娘が竹の皮を開き、握飯をむさぼるように食らい付いた。  「お前は幾つになった」 「この春で十四だ」 「そうか、十四になって身よりもおらんのなら、父御に頼まれたことでもありわしの所へ来るか。婆様一人に炊き出しを手伝ってもらっており、人の世話をするのが大変なことになってきておるんでな。住まいは婆様に頼んでやる」 「へー、炊き出しもやっておるんか。そんなとこに、うちが行ってもいいんか」 「婆様は気がいい人だから喜んで迎えてくれるはずだ。それに、わしも手助けが増えて大助かりだ。ともかく、腹も持ちこたえたようだから、今日一日はわしらの行いをよく見ておくことだ。わしらは町中に捨て置かれている骸を蓮台野に埋葬しておる。これも空也上人の行いに学んでおることだ」  比叡の峰より連なる東山から登った陽が、人々の横顔を明るく照らしている。その明るさとは裏腹に、亡骸を埋め終えた盛り土の前では人々が沈痛な面立ちを見せている。阿古也は小石を五段に積み上げただけの卒塔婆に向かい経を詠み、側で手を合わせている娘を一瞥すると頬には涙の筋がつたっていた。  人々の列が五月と言う娘を加え、南に下り大内裏の北辺となる一条大路まだ来ていた。この大路を東に向かおうと歩み出すと、宮城門の脇に立つ衛士が胡散臭そうに眺めている。阿古也は大内裏の内を窺いながらも、昨日、捨て置かれた骸を見た堀川端へ急いでいた。十丈(約30m)もの幅がある大路の南手には、広大な大内裏を囲む築地塀があり、その東には大宮大路を挟み一条院が二町にまたがって続いている。これらの路には既に大内裏へ出仕を終えているのか官人の姿が無く、また疫病を恐れているのであろうか他に人影が見られない。ただ、一条大路の東の彼方を見ると北の山里から町中へ物売りに向かうのか、荷を頭に乗せた数人の販女が歩いていた。  堀川端に着くと、そこには死臭がむせるように漂い、骸には十を超える烏が群がっている。近づいた阿古也は、逃げようともしない烏を追い払うため錫杖を横に払った。すると、騒々しい羽音を立てて飛び上り、その中には築地塀の上に止まった数羽が威嚇するかのごとく鳴き騒いでいる。烏が去った跡には、野犬にも喰いちぎられていたのか骨があらわになっている骸や、目の玉を啄まれた骸、それらに覆われるようにしていたいけな子の骸までが置き去りにされている。周りには赤黒くなった血の跡が見られ、喰いちぎられた肉片までもが散らばっていた。 「昨日より骸が増えておるな。それにしても惨い有様である」 阿古也は、思わず声に出して呟いた。 「なぜこんなとこに、これだけの骸が置かれておるんや」  側に寄って来た五月が、独り言のように話している。 「ここはな、修験者であった浄蔵が、都に戻って父の葬列に出くわしたところだ。そこで棺に縋って祈ると、父が一時蘇生したと伝えられておる」 「そうゆえば、そんな話を聞いたことがある」 「それで、堀川に架かるこの橋は一条の戻り橋とも呼ばれておる。この骸には蘇生を願った民の思いが籠っておるのかも知れん」 「そうゆうことなんか」  そこで振り返った阿古也は、人々に話し掛けた。 「皆様方、今日はここの骸を運びます」  人々が、一つの骸を莚で覆い込み荷車に乗せると次に向かい、再び骸を乗せる繰り返しで、荷車には直ぐに満載となる五体の骸を乗せている。 「今日はこれまでにして、蓮台野へ向かいますか」  このように話した時、橋の向こうより一人の男が歩み寄って来た。 「おい、そこの坊主。この橋を渡ったところの屋敷の塀際に、骸が一つ転がっておる。あれも持って行ってくれ。臭くてかなわん」  男が屋敷を指差して言った。  ぶしつけな男の言い方に、人々がざわめいたが両手を広げて遮り、答えた。 「見ての通り、荷車は満載になっております」 「そう言うな。これを遣わすから何とかしてくれ」  男が手にしていたものを、足元にばら撒いた。 「それは何になりますか」 「銭だ。これだけあれば事足りるであろう」 「布施にございますか。そこまでされるのならお申し出の通りにさせてもらいます」 阿古也の言葉を聞くと、男がそそくさと橋を戻り屋敷の中へと消えて行った。 「あそこは、だれの屋敷か」  五月が、吐き捨てるように呟いた。 「諸国の国守を歴任し、しこたま財を蓄えおった源頼光の屋敷だ。藤原摂関家に取り入って、朝家の守護などと呼ばれ持て囃されておる」 「主が主なら、家人の鼻も高いのう」  後ろから頭の声が聞こえた。 「五月、折角だからあの銭を貰っておいで。今日、手伝いをしてもらった人々への報いになる」 「そうゆうことなら貰っておこう」 五月が急いで駆け出し、拾い集めた。 「皆様方、無理を言いますが、あそこにある骸も荷車に乗せてもらいますか」 「無理などと滅相もないことで、わしらは阿古也様のお言いつけなら何でもやります」  こう言うなり頭が骸に向かって歩いており、他の人々も後に続いた。  骸を乗せて荷車を引く人、押す人。人がかわるがわるに入れ代わり、蓮台野へ向かう坂道を登っている。異様とも見える人の列であるが、何故かこの地の風景の中になじんでいる。それにしても疫病の猛威ではあるが、骸として捨て置かれた民の侘しさばかりが、阿古也の心の奥底に溜まっていた。  陽が傾きかけたころ、高台となる蓮台野の空き地に着くと、人々が直ぐに墓穴を掘り始めた。やがて、西の山に陽が沈もうとする前には、骸を埋めた六つの盛り土が出来ている。その前で阿古也は経を詠み、後ろには手を合わせた人々が並んでいた。経を詠み終え振り返ると、彼方には夕陽に照らされた都の町並みが霞むかのように広がっている。その夕景を眺めていると、捨て置かれた死者の霊魂が揺らめいてさまよっているかのごとくに思えた。 この日の夜、炊き出しも終え詰め掛けていた人々が帰り、五月も婆様の小屋で泊まっている。阿古也は焚き火の残り火の側で一人になり、焚き木の奥に赤く燃える火を見つめながら一時を過ごしていた。すると、林の中で鳴き続けていた鳥の声が急に静かになった。すると、小道の向こうから数人が語る声と馬の息遣いが聞こえ始めた。その人影が月明かりに照らし出されると、呼び掛けて来る懐かしい声がした。 「鬼熊、そこにおったか」 「おお石熊か、よく来たな」  括りの小袴で小袖を着込み、白衣を羽織った石熊が笑みを見せて歩み寄って来た。 「ここが貴様の住処か」 「そうだ」 「お館様より、都の北にある船岡山の裾野と聞いていたが、直ぐに見つけたぞ」 「お前さんは、勘が鋭いからな。焚き木を継ぎ足すから、一休みすることだ」 「おお、そうするか。お館様よりお指図があった荷は、小屋の隅にでも積んでおくか。荷が多くなったので、街道途中の駅(うまや)で馬を借りることにしたんだ」 「すまないな。荷は小屋の間口辺りに置いてくれると良い。民を救うための糧(かて)をお館様に頼んでおいたのだ」 石熊が荷を小屋へ運ぶように、配下の者達へ声を掛けて焚き火の側に座った。阿古也は残り火の上に焚き木をかざし、一息吹きかけると直ぐに勢いよく火が燃え立っている。 「都の民人は、よく集まって来るのか」 「一月ほど前から炊き出しを始めておるが、今では数十人が集まっており、その中にはわしの手伝いをよくしてくれる者がおるようになった」 「そうか、それは良いことだ。それと、これもお館様より貴様に渡すように言われた」 重そうな小袋が、ドサッと音を立てて阿古也の前に置かれた。 「これは何だ」 「しろがね(銀)の粒だ。貴様の都でのお役目の足しになるだろうし、それと、お館様も都の苦しい民を助けようとする貴様の志に、痛く心をひかれておられるようだ」  小袋を開け、親指の先ほどに丸められた銀の粒の二、三個を掌に載せると、阿古也は頷いて石熊に話している。 「これは助かる。この辺りに住まう民は、食うや食わずの暮らしをしておる。これだけあれば少しはましな暮らしが出来ることになる」 「ところで、俺が聞いた話では、お館様のご先祖はもともと比叡山で修行をされていたようだ。二百年ほど昔のことになるが、そこに、唐の国から帰った僧の最澄なる者が、草庵を建てたのだ。そのうち、この山の裾野の盆地で都が造られ始め、騒々しさに嫌気が差したのか、今の大江山に移られたようだ」  石熊が、思いついたように話し出した。 「その話は、わしも聞いたことがある。帝の庇護を受けた最澄が、次第に寺を大きくしたのと、そのころには大江山で鉱脈を見つけられていたそうだな」 「そのようだ。ただ、ご先祖は都の造営に駆り出された民の困窮をよく見られていたようであった。ふんぞり返る貴族どもは民の姿を見ようとせず、その家人どもが民を叱咤しておったそうだ。普請の途中で、怪我や病で倒れる者の数は知れず、遠国から駆り出された者などは悲惨で、ろくな糧を持たずに国を出るものだから行き倒れになった者も多かったようだ。しかも、長岡でやっていた都の造営が途中で取り止めになり、この地で一から始まったものだから、民にとってはたまったもので無かったようだ」 「まことに貴族どもの考えることは、かってなことばかりだ」  民人を気遣うことの無い貴族の暮らし様を見知っている阿古也は、吐き捨てるように言った。 「大江山の里にある河守などの村からも、多くの民が駆り出されたようで、その苦労を見ていたご先祖は、鉱山から得たくろがね(鉄)で農具などを作り、村人に与えられたようだ」 「そう言うことだったのか。それが今のお館様にも伝わる民を思う遺志なんだ」 「その通りだ。これは今も続けておるが、俺たち山の民は里の民と親しく交わることをしないので、鬼贈と書き札をして夜のうちに村々に置いてくるんだ」 「そうか鬼か。確かに、山の南にある魔谷の鑪(たたら)の火などは、陽が暮れると里からは鬼火に見えるかも知れんな。ところで、お館様は、お元気か」 「元気だ。先月も峰入りの行をされていて、南の由良川の向こうにある山で、新たな鉱脈を見つけられたようだ。そこで、この山は鬼ガ城と名付けられて、里の民が恐れて近づくことの無いようにされておる」 「やはり山の民の暮らしを守るためには、鬼にしておかねばならないか」 「そのようだ。そこには茨木様と五人ほどを残して詳しく調べさしておられる」 「やはり茨木様か。あのお方は何事にも鬼才をお持ちだ」  阿古也は、夜空を見上げている。そこには小望の月が浮かび、茨木の精悍な面立ちを思い起こさせるように皓々と輝いていた。幼いころより様々なことを教わった。民の災厄を救う孔雀明王経や不動明王経などの経典、薬草や鉱脈の見取り、更には山で生き抜くための業のことなど。厳しくもあったが、眼差しはいつも慈しみに満ちていた。 暫しの思い出に耽っていた阿古也に、石熊が小突くような声で話し掛けて来た。 「その通りだ。ところで貴様は天灯(てんとう)というのを知っておるか」  「何だ、それは」 「茨木様のお知恵だが、細く割った竹を人ほどの大きさに組み、紙を張り付けて行灯のようなものを作るんだ」 「それを、どうするのだ」 「下の口には鉄線の籠が取り付けられておってな、そこで火を焚くと空に舞い上がることになるんだ」 石熊が自慢げに、地面で絵を描きながら話している。 「空を飛ぶのか」 「そうなんだ。去年の秋に大江山の様子を調べるためだろうが、国府の役人どもが山へ登って来よった。茨木様は、見張りの知らせでどこにいるのかわかっておられたので、日が暮れると風上から天灯を飛ばされたんだ」 「へー、それでどうなったんだ」 「紙には鬼の顔が描かれておって火に照らし出された鬼が、まさに夜空から襲うように見えたんだろう。役人どもは、腰を抜かさんばかりに逃げ帰りおった」 「なにか、作り話を聞いておるようだな」 「いや、本当にあったことだ。その時の役人どもの姿を思い出すと、今も笑いが込み上げてくる」 くっくっと笑い出した石熊の様子を見ていると、阿古也は改めて茨木の才の深さを思い知らされた。 夜空に明りを灯して舞い上がる天灯とは、いかなるものなのか。しかも、それには鬼の顔が描かれているとは。人がそれを見れば、恐らくは深山に住まう鬼が夜陰の空から威嚇しているように映るのかもしれない。一度は、それを見たいものである。 一頻り笑い続けていた石熊が、向き直って話し掛けて来た。 「ところで、貴様からお館様へ伝えることは無いのか」 「おおそうじゃ、それがわしの本来の役目だ」  阿古也は、今日の町中での様子を思い出しながら話し始めた。 「今の都の悩みはモガサだ。去年も流行ったが、今年の勢いは凄まじいもので、町中では骸がゴロゴロと捨て置かれておる」 「そんなにひどいのか」 「わしはその骸を、今は墓穴を掘って埋葬しておるが、これからは穴を掘るのも間に合わんと思う」 「それでは、どうするんだ」 「埋葬地まで持ち運び、そこで風葬にするしかないだろう。それでも、捨て置かれるよりはましと思うしかない」 「それほど死者が多くなりそうか」 「何かに祟られておるのか、このまま広がれば都の住人の半ば近くが亡くなることになるかも知れん」 「それほどまでになるのか。それで、貴族どもはどうなんだ」 「貴族屋敷からも、ぼつぼつと葬儀の列が出ておる。それに貴族と言えば、もう一つ気になることがある」 「それは、何だ」 「この一月ほど前から、貴族の姫が一人、二人と神隠しにあっておることだ。鬼のせいとか悪霊の仕業だとか言って、その屋敷では陰陽師の出入りが多いな」 「貴族の姫がのう。誰の仕業と見ておるんだ」 「わしが見るところでは、都の南西にあたる大枝の、老の坂辺りに巣くっているごろつきの一党だと思う」 「何でごろつきが貴族の姫をさらうんだ」 「行き着くところは金品目当てであろうが、一党を率いている者の中には、神隠しにあった貴族が国守をしている国の者がおるようだ」 「やはりそうなんか。貴族どもは己のふところを肥やすのに熱心だが、民のことはお構いなしだからな」 「その通りだ。国守の税の取立てが厳し過ぎると言って、遠国からでもわざわざ都にまで登って来て訴えをする民も見ている」 「それもきついことだな。お館様には、その通りに伝えておく」 「よろしく頼む」 「おっと、だいぶ話し込んで時が過ぎてしまったようだ。そろそろ帰らねばならない」 「もう帰るのか」 「そうだ、都の者に見られたく無いので、夜の内に鷹ケ峰の峠を越してしまいたい」 「そうか、気を付けてな」 「鬼熊、お役目をしっかり頼むぞ」  石熊がこう言い残すと、馬を引く配下の者達を連れて林の中に続く道を歩んで行った。   阿古也は、その後姿を見送りながら立ちすくんでいる。すると、小屋の脇より近づいて来る足音が聞こえた。 「阿古也様、あなたは一体何者なんだ」  姿を現した五月が、問い掛けて来た。 「五月か、まだ起きていたのか」 「変な男どもが来ていたので、心配になって小屋の横に潜んでいた。あの男は、阿古也様のことを鬼熊と呼んでおったな」 「聞いておったか」 「それに鬼とか大江山のお館様とは、だれのことなんだ」 「そこまで聞いておったか」 「聞かせてくれ」  昨日からの行いを見て、五月が好意に似た気持ちをいだいているのはわかっていた。それで、わしのことを知ろうとしているのであろうが、大江山の全てのことを話すのには暫しためらっていた。だが、これからはここで共に暮らして行くことになるかも知れない五月のことを考えると、話しておかざるを得ないと思った。 「そうか。わしのことは、ここでは婆様だけにしか話しておらぬが、お前を信じて話しておこう」  月の光の下に、ほのかな明るさがある小屋の前の広場で、焚き火を中にして向かい合って座った。火に照らされ染まるように赤くなった五月の顔を見ると、見据えるような眼差しをしている。 「二十数年前のことになるが、わしは赤子の時に都の北西の遠く、丹波と丹後の国境にある大江山の麓に捨てられておったそうだ。そこでお館様に拾われ大江山で育てられた。さっきまでここにおった石熊は、幼いころから行を共にした仲間であった」 「そうなのか、阿古也様は捨て子だったのか。うちより大変な目にあっているんだ」 「そういうことかも知れん。それで、お館様のことは酒呑童子と呼んでおる。修験の大本である役行者の流れを汲む修験者で、山では験を修めた童子と呼ばれる者を配下にされておられる」 「童子とは、童のことか」 「そうではない。我らは験を修めておるが、山の民として生きておるため得度をすることがない。そこで童子の名のままでおるが、むしろ誇りに思っておる」 「すると、鬼とは誰のことなんだ」  突き刺すような言葉で五月が言った。 「鬼を名乗っておるのは、都の者に足を踏み入れられないようにするための手立てだ」 「そうゆうことか」 「わしも大江山での名は鬼熊童子と言う」 「鬼熊とは恐ろしい名だ」 「五月、ここでの名は阿古也だ。間違うでないぞ」 「その方がいいや」  にこっと微笑んだ五月を見て、阿古也は話を続けた。 「大江山は、しろがね、あかがね(銅)、くろがねを産する山だ。それで童子の他には、鉱夫に鑪や鋳物、鍛冶をやる者、それと木地師なども共に暮らしておる。これらの者の多くは、厳しい税の取り立てや飢饉などで国元では暮らせなくなった者達だ。お館様は、この山のめぐみを分かち与えておられる」 「そうか、大江山では苦しい民人を助けているのか」 「その通りだ。ところが都の貴族どもはそうは思わない。そこで数年前に、わしはお館様より都へ遣わされ貴族どもの動きを知らせる役目を負っている。それに民を救うことがお館様の意に適うこととして努めておる」 「それで、大内裏の内を覗いておったのか」 「見ておったか。ここの婆様とは、わしが都へ登って来たころから知り合いになった。今では潰れておるが、とある貴族の屋敷で奉公をしておったので、都のことや貴族や民のことで教えを受けておる」 「そうゆうことだったのか」 五月が大きく頷いて、じっとこちらを見つめている。 「五月、もういいだろ。早く寝ろ。明日も埋葬で忙しい」  いつしか月が中天辺りにまで登っている。その月を見上げた五月の顔が微笑ましく思えた。  
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