美しい海

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 それが起きたのは何てことない、昼時の学校でのことだ。校庭では男子が野球をしており、女子は教室でひと所に群がりながらお喋りに耽っている。早乙女佳織はきゃいきゃいした女子の集まりとは縁がなく、窓際で男子の野球を見ながらミルクティーを啜っていた。 「あんのあほ。もっとビシッとバット振らんかいビシッと」  友人がバッターボックスに立っている姿を見て苦言を呈する姿はまさに、ご家庭によくいるビールを飲みながら野球中継にヤジを飛ばす父親そのものである。いけぇやったれぇ、と窓から声を張り上げながら拳を振っていると下の方から「お姉ちゃん!」という高い声が佳織の耳に届いた。窓の下を覗き込めば佳織とそっくりな顔が大きく手を振っている。  妹の早織だ。同学年の別クラス、つまるところ双子な彼女たちは容姿から身長、体重の数値に至るまでよく似ていた。  黒くて長い髪を背中で揺らし、茶色がかった虹彩はそこらの女子より少し薄い。背は百六十をゆうに超えているので低身長のクラスメイトから羨ましがられる。  今日の早織はその黒々とした艶のある髪をいわゆるポニーテールの形に結い上げて、紺のブレザーを体操着に着替えていた。 「早織ぃ、次体育ぅ?」 「うん、お姉ちゃんはぁ?」 「うちこてーん」  頑張って、と言って笑う早織の笑顔を見ると、佳織は不思議と元気になれる。だから今日も頑張ろうと思って、顔を引っ込めたのだ。  その時だ、窓下から悲鳴が聞こえたのは。  何事かと思い佳織が窓下を覗き込むと見慣れた姿が倒れていた。早織だった。 「早織!?」  もう授業が始まるというのに、なりふり構っていられない。  チャイムが鳴る。それにも関わらず、佳織は教室を飛び出した。階段を飛び降りること二回、上履きのまま校庭の方へと駆け出す。 「早織は!」  女子と男子が団子になっているところに体を捻じ込んで、中心に倒れている早織の体に縋り付く。早織は白い顔で目を瞑ったまま、佳織の声に反応すらしない。近くにいた男子がすまなそうに声をあげた。 「すまん早乙女。俺のボールが……」 「ノーコン! って言いたいとこやけど、不慮の事故やわこんなん。しゃーない」  脳震盪の可能性が高いからしばらく保健室で寝かせようとのことで早織は担架で保健室へと運ばれて行った。仕方なく教室に戻った佳織は先生にお叱りを受けながらも、眠ったままの早織の顔に胸がざわざわと騒ついていた。もちろん授業に集中できるはずもない。散々だったがそれよりも早織の方がなによりも大事だった。  放課後になり佳織は保健室へ飛び込んだ。早織が心配だった。自分の唯一の理解者に何かあったらと気が気ではなかった。 「失礼します!」 「早乙女さん、此処は保健室です。静かに入室してください」  初老の保健医の苦言にう、と呻きながらも佳織の目は保健医の目の前に座って奇妙に腕を動かしている早織を見つめている。  あぁ、早織が起き上がっている。無事なのだ。  ほっとして涙が出そうだった。 「早織、無事で——」 「お姉ちゃん」  早織は不思議そうな声できょとりと首を傾げながら佳織の方を見ずに問いかける。 「この子の名前、知っとる?」  早織には、海が見えるらしい。  あれから脳専門の病院に行った早織は医師の前でそう言った。 「お姉ちゃん、あの魚何ていうんやっけ」  真っ白なベッドの上を泳ぐように横たわって、早織は無邪気そうに佳織に問いかけた。 「どんな魚?」 「えっと、黄色いの」 「黄色ぉ? そんな目の痛くなるような魚おる?」  佳織の問いに早織はケタケタ笑って言った。 「おるよぉ。目の前ですいすい泳いどるよぉ」  ね、と嬉しそうに同意を求める早織の視線の先には何もいない。指先でその魚をつついているのだろう。早織の白く細い指先が宙をすいっと柔らかく撫でた。 「ちょっと待ってな。今調べるけん」 「うん。ありがとうお姉ちゃん」  早織の笑顔はいつもと変わらない。その姿をずっと見ていても、早織が病気だなんて思えない。それでも、早織は病気なのである。  幻想病症候群。幻のように美しい幻想を見る病の中でも『幻視海棲症』という、幻の海の中を揺蕩う病。早織はその患者だった。  きっかけはなんてことない、頭にボールがぶつかったからに他ならない。何万、何十万に一人、たまにそういった頭部への衝撃で発症する人がいるのだという。 「あったよ、早織」  佳織はスマホの画面を早織に見せた。そこには確かに黄色い魚が映っている。画面を埋め尽くすほどの黄色い魚。 「名前は?」 「チョウチョウウオやって」 「へぇ、あんたチョウチョウウオっていう名前なんやね。名前を知ることができて嬉しかぁ」  早織は指先で魚と戯れているのだろう。指先は宙をさまよい、視線はひっきりなしに動いて少しも休まることがない。  もう佳織のことも意識の外に追い出したのか、早織は時折くすくすと楽しそうに笑い声をあげながら幻の中にいるのだろう魚たちと遊ぶ。その姿はたいそう可愛らしい。  ふと、チャイムが鳴った。時計を見れば針は既に五時を指している。面会時間も終わりだ。佳織は早織の細い肩にそっと触れて快活な笑みを向けた。 「早織、もう寝とかんね。そろそろ薬の時間やし、面会も終わるし」 「えぇ」 「えぇ、やないよ。早よ良くならんと早織の行きたいとこに連れて行かれんし、早織もつまらんやろ?」 「…………」  佳織の言葉を聞いて、早織はようやっと佳織を見たような気がした。そのことに、佳織は少しだけ安堵の心地になる。  しばらくの無言が夕暮れどきの病室を支配した。早織は手元に視線を落としたまま唇をきゅっと結んでいる。指先は絶えず動いていた。幻の魚と戯れているのだ。  ふと、早織が笑う。とても、綺麗な笑みで。 「みんなが見えんくなるなら、うち、このままでよかよ」  「早乙女さん、もう面会終了ですよ」という看護師の声とともに、佳織の意識は体ごと病室の外へと引きずり出された。看護師が引きずって、部屋の外に放り出して、そして入れ替わるように早織の病室に入っていく白い服を着た女たち。  呆然と、佳織は廊下に立つ。  このままでいい、なんて。どっどっと鼓動が耳の奥で大きく鳴り響く。  早織に薬を手渡している声が扉越しに聞こえる。その間も早織は楽しそうに笑っていて。笑って。笑っていて。 『このままでよかよ』 「……早織」  佳織の目の端を何かが伝った気がした。  早織の笑い声が聞けるのは嬉しい。早織の笑顔が見られるのはもっと嬉しい。  でも、それを共有できないのは悲しい。もっと言うなら、早織がその世界に閉じこもって、佳織の声が届かなくなるのが怖い。怖くて、怖くて、たまらない。 「早織ぃ……」  うずくまって、泣きじゃくる。早織が知らないところに行ったような気がした。佳織も同じ病気にかかれば、早織と同じ感情を、同じ世界を共有できるのだろうか。 「早乙女さん」  顔を上げれば早織の主治医が目の前に立っていた。 「大丈夫ですか」 「すんません。大丈夫です」 「ですが、目が」 「これくらい、なんともないんで!」 「じゃあ」とだけ言葉を投げ渡して、医師の顔も見ずに廊下を足早に立ち去った。今医師の顔を見たら、早織と同じ病気にしてくれと頭を下げて頼み込みそうな気がしたのだ。  早織と同じ病気になれば、佳織も早織が見ている景色を共有できるのだろうか。  病院からの帰り道。夕暮れの燃える空を眺めながら考えるのはそんなことだった。  そうだ。水族館に行こう。  視界を燃やす赤なんて見ていても、早織の見る世界には辿りつけないのだから、せめて似たような世界を見に行こう。  思い立ったら即行動。佳織は病院から離れる足取りをだんだん速くして、終いには駆け足で駅まで走って行った。電車に飛び乗り繁華街へ。そこからさらに電車を乗り継いで海の近くに確かそれなりに大きな水族館があったはずだ。電車から降りたら一気に駆け出して、閉館時間を気にしながら滑り込む。息を切らして辿りついたそこには空よりも深い青が広がっていた。  これが早織の見ている世界。きらきら光る水の中で悠然と泳ぐ魚たち。岩礁の中に息をひそめるもの。イソギンチャクの中に身を置いて共生するもの、我が物顔で水中を闊歩するもの。様々な魚たちが水と戯れている。  この世界が、早織のいる世界。人の世界よりもずっと美しい。  佳織はふにゃりと膝を折りその場に座り込んだ。脚に力が入らなかった。こんなに美しくて、完成された美の世界にいるのなら、このままでもいいんじゃないか。魚と戯れて、笑っていてくれている現状でも、それなりに満足しているのだから、それで十分ではないか。  そこに、自分がいなくたって。  ぐし、と佳織は目元を擦った。拭っても拭っても伝い落ちてくる涙に鼻を啜りながら笑った。  明日、早織を退院させよう。  みっともない泣き顔を晒しながら、佳織は目の前をゆったりと泳ぐ魚たちの中に早織が紛れているのを幻視し、泣き笑いの表情でそれをじっと見つめていた。 「早乙女さん、本当にいいんですか」  昨日の医師が困ったような顔で言う。面会直後の早織の病室の前で佳織は医師と対峙していた。佳織は毅然とした表情で「いいです。退院させます」と答えた。 「早乙女さん。妹さんの病気は、治せるんですよ」  医師の言葉はどうでもよかった。ただ佳織は、今早織が笑って暮らしている世界を否定したくなかったのだ。 「早織は、あれでいいんです。ああして生きていてくれるだけでいいんです」 「ですが早乙女さん。その年で妹さんの薬代等を賄うことができるんですか」 「やります。できないなんて言いません。高校生でもバイトはできます」 「早乙女さん」 「うるさいっ!」  医師の言葉がひたすらに耳障りでしょうがなかった。あぁ、この声が早織に届いていませんように。届いていたら心配をかけてしまうから。それだけが佳織の胸を内を占める。医師の言葉なんて、まるで胸に届いていなかった。 「早乙女さん……」 「…………」  肩で息をする佳織に医師は何かをカルテに書きつけると看護師を呼ぶ。看護師は医師の指示を受けるとどこかへと歩いて行った。  早織が幸せでいてくれればそれでいい。早織が心配することなんか何もない。その言葉だけがまるで呪詛のように佳織を雁字搦めにしていく。思考がその言葉で埋め尽くされる。  そう。早織がいれば、それで。  俯きぽたぽたとみっともなく涙を零す佳織を見て、医師は困ったようにため息を吐いたようだった。ばたばたと看護師が佳織の横を通りすぎて葵のいる病室へと入っていく。この医師がまた何か指示を出したのだろうか。少し顔を持ち上げた佳織の頭上から医師の声が降り注ぐ。 「退院許可を出しました。しばらくは自宅療養という名分ですが」  その言葉に佳織は顔を上げた。困ったように笑う医師の顔。それと同時に背後の扉が音を立てて開いた。 「お姉ちゃん」 「早織」 「うち、退院やって。ごめんね迷惑かけて」 「早織……」  震える手を伸ばして早織の頬に触れる。今も佳織と同じ色彩を持つこの瞳は海の底を映しているのだろう。魚たちが佳織の横を、頭上を、方々泳ぎ回っているに違いない。 「迷惑なことなんかなんもなかよ。早織が生きてうちの隣におってくれるだけで、それでよかと」 「でも、このままやとうち、お姉ちゃんにもっと迷惑かけることになっ——」 「あほ」 「いたっ」  ペチンと早織の額にデコピンをかまして佳織は笑った。泣き顔の跡の残る見るに耐えない顔で。きっと早織の視界には海の中に佇む佳織の姿が見ているだろうから、海の青がそれを隠してくれているといいのだけど。 「早織が心配することなんかなーんもなか。全部お姉ちゃんにまかしとかんね」 「…………」  早織はぽかんとした表情で佳織を見つめていた。海の青に揺らぐ視界の中でも、姉の顔だけは、どうしてだろうか、鮮明に早織の目に映った。  泣いた跡がしっかり残った、ぶさいくな顔。 「ふ、」 「なんね。急に笑い出したりなんかして」  佳織を見てくすくすと笑う。早織が笑っているだけで、あぁ、早織はちゃんと生きて此処にいるんだなぁと実感できて佳織は胸が晴れやかになるような思いだった。 「お姉ちゃん、泣いたあとの顔しとるよ」 「ふえ」 「ふふ。みっともなく泣きよったみたいやね」  病気になってから随分とおっとり話すようになった早織の口調はさておき、泣いていたことを悟られて佳織の顔が熱くなる。 「な、なんで分かるとね」 「分かるに決まっとろうもん。涙のあとが残っとるし」  泣き虫お姉ちゃん。そう呟きながら、早織の指が佳織の頬をなぞる。 「だって、早織」 「海の中にいたって、そんくらい見えるけん。それにさ」  うちら、双子やろ。  早織の言葉に、再び佳織の涙腺が緩んだ。 「早織ぃ」 「ほらほら。泣かんと」 「やって、なぁ」 「海が見えるだけで体には何の影響もないっちゃろ。うちもちゃんと働くけん、一緒に頑張ろ。ね、お姉ちゃん」  ゆうるりと笑いながら葵が言った言葉に佳織は一瞬顔を強張らせた。  体には何の影響もない。早織はそう言って、そしてそれを心の底から信じきっている。  だがそれは嘘だ。佳織がついた真綿のような優しい嘘。  幻視海棲症は脳の病気だ。脳のどこだかさっぱり知らないが、脳に異常があってそれが視覚に及んだり身体に及んだりする。  早織は視覚に異常が出たが、実はそれだけではないのだ。 「でも体とかだるいっちゃろ。無理することなかよ」 「大丈夫大丈夫。こんくらいなんともなかけん」  嘘。そう言いたいのを佳織はぐっと堪えた。  海の幻想は確実に早織の体を蝕んでいる。それを佳織は医師から聞いて知っていた。それは魚に肉を突かれるように、確実に早織の体を細くしていくのである。  肉が落ちるのだ。何を食べても、肉にならないのだ。早織の体は軽さを増すばかりで、いずれ骨と皮ばかりになることは容易に予想できることだった。 「帰ろう、お姉ちゃん」  早織が手を差し出す。その手を、佳織は。 「うん。帰ろうなぁ、早織」  その手を掴んだ瞬間、染み渡るように青が広がった。 「え、」 「どうしたと、お姉ちゃん」 「早織、これ」  佳織の狼狽えた様子に不思議そうに首を傾げて、早織は佳織の腕の腕を引っ張った。医師の残念そうな、悲しそうな顔が視界の端に置き去りになっていく。 「お姉ちゃんと一緒! 久しぶりたいねぇ、こげなふうに一緒に帰るの」  早織が楽しそうに歩く横で佳織は目の前で起きていることがさっぱり分からなかった。  視界に海が広がっている。街が海に沈んでいるのだ。早織の顔のそばを魚がついっと通り過ぎる。道路の中心を鯨がのんびりと泳いでいる。地面のあちらこちらに珊瑚礁ができていて、色鮮やかな世界が佳織の眼前に形成されている。  これが、早織の見ていた世界。  透明な雫が頬を伝った。 「お姉ちゃん、何で泣きよると?」  早織の問いに佳織はひくりと喉を震わせた。この涙を、嗚咽を、どうして抑えられよう。こんなにも美しい世界を、今まで佳織は早織から取り上げようとしていたのだから。 「ごめん、早織」 「お姉ちゃん?」 「ごめんなぁ」  謝ってばっかじゃ分からんよ、という早織の言葉に、佳織はただただ涙を零すことしかできなかった。  とっぷりと青に沈んだ世界に、少女二人。電気も消えた暗闇に二人は向かい合ってベッドの上に横たわっていた。 「綺麗やな」 「綺麗やね」  海に満ちた世界で揺蕩いながら、魚とともに今日も眠る。  さぁ。今日はどこまで泳ごうか。
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