ララバイ

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ララバイ

 夏といえば、海だ。そして海といえば、海の家だ。  私は友人に頼まれて、祝日の休みを使って海の家の手伝いをしていた。普段、太陽の光に当たらない生活をしているからか、太陽光に当たると眩暈がしそうになる。それを見ては友人は私をからかう。ヤキソバを見事な手つきで作る友人の手さばきを感心しながら見ていると、ドスのきいた声が飛んできた。 「ビール! 早う!」  はいはい、と肩をすくめて私はビールサーバを握る。ジョッキや皿を洗う友人の後輩分が、ぷっと吹き出した。マサカズという後輩分は関西出身らしく、友人のエセ関西弁を聞くたびに、むずがゆいわあ、と笑う。その都度、友人がマサカズの頭を思い切り殴る。若い女の子たちにはこれがコントにでも見えるのか、黄色い声が友人の店から途切れることはなかった。  太陽が沈んで山の向こうへ沈み始め、海も砂浜も集まっている人間の顔もすべてを橙色に染めていった。海が青からオレンジ、赤、群青、そして最後には黒へと移り変わっていくのを眺めながら、私たちは店の片づけをしていた。まだ都内へ帰らなければならないため、飲酒はご法度だった。誰か一人が飲んでたらみんな飲みたくなるだろ、というのが友人の主張で、それもごもっともと私もマサカズもアルコールなしですべての仕事を終えた。 「あのう……」  ワゴン車に乗り込もうとしていると、後ろから声をかけられた。友人とマサカズは視線をちらりと合わせて、ほんの少しだけ口の端をあげた。 「なにかな」  わざとらしい笑みを浮かべた友人だが、そんな姿もなかなか男前だ。日に焼けた精悍な顔に、ヤニだらけだったのを金に任せて治療した白い歯、肉体労働で鍛えたたくましい腕、期待感を抱かせるがっしりした腰とくれば、ひと夏の恋の相手に彼を選ぼうと思う女性がいてもおかしくはない。私は声をかけてきた女性を眺めて、今晩の友人の獲物が自ら罠にかかってきた、と思っていた。  まだハタチにもなっていないような子供っぽい顔と口調の彼女たちは三人いた。彼女たちのとろんとした目と半開きの唇が、知性や理性ではなく性欲が原動力だと語っていた。顔は子供の顔だが、体は娼婦はだしの少女たちを乗せて、私は今年の海と別れを告げた。  後ろに乗っている友人とマサカズはそれぞれが選んだ少女の小さな布切れを脱がせてお楽しみだ。助手席に乗っている少女はさっきから私の股間へ手を伸ばそうとして、そのたび私にさりげなくさえぎられるのでむくれていた。途中、休憩のためにコンビニにワゴンを止めた。ビキニの上にショートパンツとパーカーを着た少女を連れて、友人たちはワゴンをおりていった。私は助手席の少女のために、助手席側へ回ってドアを開けた。 「つまんない」  ドアを開けるなり、助手席の少女が呟いた。 「あたし、あなたが一番よかったから、ラッキーって思ってたのに」  思わず笑ってしまった私を少女は小さな拳で殴りつけた。 「やっぱりあんたも、マキかユウコがよかったんだろ。どうせあたしはマキみたいに美人じゃないしユウコみたいにスタイルもよくないし。あたしはあのふたりの引き立て役ってわかってるんだ。だからがっかりしてるんだろ、どうせ」 「無理にそんな蓮っ葉な口をきくんじゃない。普通に話したほうが、君は魅力的だ」  殴りつけてくる拳を捕まえて私は言った。 「この後は酒を飲んでそれから乱交パーティ状態になる。それでもいいならついてくるがいい。それが嫌だったら、どこかでおろしてあげよう」 「らん……こう?」  馴染みのない単語に興味と恐怖が入り混じった表情をして彼女は私を見た。 「そう。女の子は君たちだけだけど、彼らの友人が混ざってきて、毎年ひどい状態になって女の子は帰っていくよ」  彼女はそのままついていくと言った。彼女の決断なら、それ以上は私の知ったことではない。優しく愛をささやいてくれる男にはどう転んでも見えない男についてくるのだ。童顔はチャームポイントだが、頭が子供なのは時に致命傷だ。  毎年最後にたどり着く店は一階が麻雀喫茶で、二階にかなり本格的なルームバーを設置した部屋がある。ルームバーでシェイカーを振るところまでが私の仕事だ。友人とマサカズ、少女三人に好みの酒を作ってやる。友人はウォッカ、マサカズはコロナ、マキとユウコはモスコミュールと言った。 「カナは?」  マキが助手席の彼女に訊いた。 「……あたし、わかんない」 「カクテルの名前ひとつ知らないのォ?」  マキが馬鹿にしたような声を出す。 「気分や好みからお客様に合ったお酒をお出しするのが、バーテンダーの仕事です。お酒の名前を知らないことは恥じることではありません。そのためにバーテンダーがいるんですから。車にずっと乗っていたから疲れているのではないですか」  立ちすくんでいるカナと呼ばれた助手席の彼女に、私は微笑んだ。 「あ、うん……。喉、渇いた」 「それなら、あまり強くないものにしましょう。炭酸がいいですか、それともフルーツジュース?」 「ジュースがいい」  そんな調子でカナの今の調子を聞きだし、私が作ったのはスプモーニだった。さらに喉越しをまろやかにするために、普通はステアで作るスプモーニをシェイクして出した。グレープフルーツとカンパリの苦味がシェイクすることでやわらかくなる。 「おいしい」  彼女は初めて笑顔を私に見せてくれた。その笑顔が、快楽に蕩けやがて苦痛に歪むのを見るのは忍びなかった。  例年なら、私は友人たちがお楽しみを繰り広げる間中ずっとバーにいる。彼ら彼女らが欲しいと望んだ酒を作り、運ぶことで、その場をやり過ごしているのだ。女性が嫌いなわけではないが、他の男の裸が見える場所で女を抱けるほど、私は肝が据わっていない。だからいつもはバーから動かずに、男ではなく、バーテンダーであり続けた。 「ケン」  私は友人を呼んだ。マキの胸を舐めていた友人は、胸の間から私になんだ、と応えた。 「彼女、もらっていってもいいか」  カナへ親指を向けて私は言った。友人は驚きを隠せないといった顔をしてから笑った。 「嬉しいね、お前も男だったってわけだ。ただ、頼みがある。帰るなら、真夏の夜の最後を飾るに相応しい酒を作ってからにしてくれ」 「了解」  私はまたバーに戻った。ウオッカ、フランボワーズリキュール、パイナップルジュース、メロンリキュールをそれぞれシェイカーにいれてシェイクする。四つのタンブラーに氷を詰めて、中身を注いで四人に出す。 「セックスオンザビーチ――そのままだな」  友人がまたもや豪快に笑い、タンブラーを掲げた。  新しいシェイカーに、同じ材料を入れていく。ただし最後のメロンリキュールはピーチリキュールに替えた。同じようにシェイクしてタンブラーに注ぎ、カナに差し出した。 「あたしだけ違うの?」 「カクテルというのは面白くて、同じ名前なのにいくつかのレシピが存在するものも多くあるんです。これもそうで、メロンでもピーチでもどちらのレシピも正解なんですよ」 「面白いのね。確かにあたしのおっぱいはメロンっていうより桃レベルだもんな」  その時、ベッドのほうから女の嬌声が聞こえてきた。マキの声なのかユウコの声なのかはわからない。わかる必要もなかったし、わかりたいとも思わなかった。そのうち彼女たちの悦楽の声は苦痛と恐怖と懇願の声に変わる。夜はまだ始まったばかりだった。マキとユウコが翌朝どんな感想を抱くかは、考えないことにした。  私はカクテルを飲み干したカナの手を引いて麻雀喫茶から抜け出し、タクシーをつかまえて自分の店へ向かった 「もしかして、あなたのお店?」 「そう。今夜最後の一杯を、君に作ってあげようと思ってね」 「最後の一杯?」  スツールに座ったカナが小首をかしげて私に訊いた。私はバーカウンターの中に入り、道具と材料をスーパーのビニール袋に入れながら頷いた。 「真夏の夜の最後を飾るに相応しい一杯さ。さあ、行こうか」  楽しげな表情をしたカナがスツールから飛び降りた。 「あなた、桃、好き?」 「ピーチリキュールにしたのは、君の香りに合わせたからだ。胸のサイズは関係ない」 「本当? おっきくないけど、いいの?」 「メロンもうまいけど、みずみずしい桃にかぶりつくと、たまらなくうまいだろう?」  私がそう言ってカナの胸元に唇を寄せると、カナは子犬のように笑った。しばらくカナの胸と唇を味わってから、私たちは私のアパートへ行った。狭くて何もないアパートのキッチンで、私は店から持ち出した道具と材料でカクテルをふたり分作る。ウォッカ、ホワイトラム、コアントロー、レモンジュースでできる白いカクテルだ。 「今度はなんていうの?」 「あててごらん」  教えてよと言いたそうなカナの口を塞ぎ、ベッドまでの数歩の間にお互いの服を脱がしあった。夏の海にいた人間の服を脱がすことなど造作ない。あっという間にふたりとも裸になり、私たちはもう一度口づけを交わした。 「エアコンつけていい?」  カナが突然言った。確かに帰ってきたばかりの部屋は空気が篭っていて暑苦しかった。エアコンのリモコンをカナに渡す。スイッチをいじってカナは猛烈な風量でエアコンをつけた。私は思わず寒さに震えた。 「寒いなら抱きしめてあげる。あったかいよ」  言いながら、私の腕に触れたカナの手は暖かかった。  カナは実に優しく、巧みに、私を頂点へ連れていってくれた。なかなか臨戦態勢にならない私を見るや、股間へ顔をうずめた。 「あたしじゃ勃たない?」 「いや。不感症ぎみなんだ。君のせいじゃない」 「そう……。でもあたし、こうしてるだけでも気持ちイイ」  歌うような調子でカナは言い、その声に私の雄の本能が目覚めた。もういいよとカナの体を引き上げた。見つめあって口づけを交わす。口づけをしながらカナは私を自分の中へ導き入れた。ゆっくりと腰を落としてきて、肌が触れ合った瞬間に吐息をもらす。 「ねえ、あったかい?」 「ああ」 「続き……、しようよ」  カナの望み通り私たちは続きを楽しみ、ふたりで眠りに就いた。相変わらずエアコンは冷凍庫並みの風を吐き出し、私とカナは抱き合って、シーツにくるまって眠った。目覚めた時も、カナは私の腕の中にいた。  起きてふたりでシャワーを浴び、バスルームでまた抱き合った。カナは服を着て、友人たちに振舞ったカクテルと同じ名前のコロンを足首に吹き付けている。 「最後の一杯、なんていうカクテル?」 「あたったら教えてあげよう」  いじわる、とカナは背伸びをして私にキスをした。  私たちは駅まで歩いていき、駅前のコーヒーショップで遅い朝食を食べた。カナはおずおずと私の手に自分の手を重ねてきた。 「あなたのこと、好きになってもいい?」 「夏の思い出は一夜限りだから美しいんだよ」  いつまでも手を離そうとしないカナの唇に、そっとキスをした。カナの長いまつげが私の頬をくすぐった。 「ここでサヨナラにしよう。駅までいったら引き止めてしまいそうだ」 「引き止めて。あたし、あなたのこと好きよ」 「もう現実にお帰り。真夏の夜の夢はここまでだ」 「あなたの現実はどこ? そこにあたしはいちゃダメなの?」  私は首を振った。 「じゃあ最後に教えて。カクテルの名前」 「ビトウィーンザシーツ。さようなら、カナ。楽しかったよ」  そしてカナの指にキスを落とした。カナは指先までぬくもりに満ちていた。後ろ髪を引かれながらも諦めたようにしてコーヒーショップを出たカナは、それからは二度と振り返らなかった。  自分のコーヒーを飲み終えて、私も店を出た。時計はすでに夕刻を指していたが、まだ空は明るかった。だが太陽はそろそろ役目を終えようとしていて、うっすらと月が姿を見せ始めていた。  人が夢を見ている時間に起きているほうが長い私が、現実に帰る時はいつだろうか。少なくとも、まだその時でない気がしていた。 そんなことを思いながら開店の準備を終えて、最後に看板を表に返す。  しばらくすれば、ドアを開けて誰かがやってくるだろう。眠りに就く前のほんのひとときの時間を楽しむため。よい夢を見るためにせめて少しでも現実を忘れるため。そうやって私の店を選んでくれるお客様がいる限り、私はここにいる。たとえここが私にとって現実でなかったとしても。  ドアが開く。 「いらっしゃいませ」  入ってきたお客様へ、私は微笑みかけた。 ――了
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