シロップ

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シロップ

 昼間、威勢のいい掛け声が窓の外から聞こえてきて私は目が覚めた。  明け方の閉店以降も、残っていた常連のお客様と一緒に飲んでいて眠りについたのは日も高くなってからなので、睡眠時間はほんのわずかだった。けれど眠りを妨げた声の主たちをののしる気にはなれなかった。 「祭りか」  夏祭りの季節だった。今日の商店街は賑やかだろうと、その様を想像すると自然と顔がほころんでくる。鼻歌まじりにシャワーを済ませ、私は最後の夏の風を感じながら店への道のりをゆっくりと歩いていった。  蝉の声に神輿を担ぐ掛け声、それを眺める人々のざわめきが耳に心地よい効果音として響いてくる。露天の準備をしている露天商たちの汗が太陽に輝く。よそぐ風と差し込む日差しはどこか秋の気配を感じさせるものになっていた。夏祭りが行われるということは、もうすぐ夏も終わりということだ。  露天が出ている時間帯は、ほとんどお客がいなかった。歩き回った疲れた体を休めるために、ほんの少しの休憩をビール一杯とともに取っていく人は数人いたが、やはり祭りは子供が主役なのだろう。大人は子供を連れてこの夏最後の家族サービスをしているようだった。  こうなったら、こちらも祭りの空気を楽しむしかない。ドアを開けて寄りかかり、人々が楽しんでいるさざめきを眺めることで、今年の祭りの余韻を楽しんだ。 「よろしいですか?」  煙草を一本吸い終わる頃、ひとりの男性が私に声をかけてきた。私は灰皿へ煙草をねじり、どうぞ、と男性を店の中へ導いた。  休みの日だというのに、きっちりとスーツを着てネクタイをしめてスーツケースのハンドルを持っていた。穏やかに微笑んでいる目じりには疲労が滲んでいた。  カウンターへ案内して、私はキッチンで吸殻と煙草を片付けて手を洗い、裏に置いてある鏡で自身の姿をチェックする。身だしなみを軽く確認してから、カウンターの中へ入る。大変失礼いたしました、と謝罪すると、彼は微笑みを浮かべて首を振った。 「ご出張のお帰りですか?」 「ええ。アメリカへ一ヶ月出張にいっていまして、さっき帰ってきたばかりなんです」 「それはお疲れさまでした。どうぞよろしければ、ネクタイもゆるめてごゆっくりなさってください」 「こういう店は、ちゃんとした格好でないといけないのかと思ってましたよ」  ネクタイをゆるめ、上着を脱いで彼は言った。 「ホテルなどのバーならともかく、うちではお気になさらずに。お客様にごゆっくりくつろいでいただける場所でありたいと思ってますから」  ファーストドリンクの生ビールを差し出して、私は言った。 「そうか、じゃあ浴衣でもいいのかな。妻がこの夏、娘とおそろいの浴衣を新調したんですよ」 「今日はまだいらっしゃってませんが、花火の夜なんかは浴衣の女性もよくお見えになりますね。普段見慣れている常連のお客様でも浴衣を着ているとまた違う魅力が分かったりしますから、素敵ですね」  普段なら、奥様とお嬢さまと一緒にいらしてください、と続けるところだが、今回はそうは言わなかった。いや、言えなかった。浴衣を新調したんだと言った彼の顔が、一瞬寂しさに曇ったのが見えたからだ。  最後の神輿担ぎが店の前を通過していった。威勢のいい声や太鼓の音に導かれるように、彼はドアのほうを向いた。ドアから外が見えるわけではないのだが、彼はずっとドアを見つめ続けていた。祭りの音が遠くなり、にぎやかな声がもれ聞こえるようになってから、ようやく彼はこちらに向き直った。 「もう何年も祭りなんていってないな」  ぽつん、と彼は呟いた。 「私は子供の頃、お祭りでわたあめを買ってもらうのが楽しみでして。その頃食べ過ぎたせいで、甘いものが苦手になったんだと思ってるんですよ」  私の言葉に、彼も小さく声を出して笑った。 「僕はカキ氷が好きだったな。お袋は僕が露天で食べ物を買うのを嫌っていて、祭りでの食べ物はひとつしか買ってはいけなくってね」  カキ氷も、わたあめも、りんごあめも食べたい彼にとって、そのうちのどれを食べるかが、夏休みの最大の宿題だったと言った。きっと彼の脳裏には、楽しかった子供の頃の祭りの映像が流れているに違いない。まぶたを伏せて、笑みを浮かべた彼の表情は穏やかで、ゆったりとした空気に満ちていた。  彼は毎年真剣に悩み、いつも一番好きなカキ氷ではないものを選んでいたと言った。 「カキ氷って、ようするに氷にシロップをかけたものだから、祭りでしか買えない他のものに比べると、選んだらもったいないように思えたんでしょうね。でも、わたあめやりんごあめを食べ終わった頃になると、友人たちがカキ氷をすくっているのが見えるんですよ」  悔しくてねえ、と彼はビールを飲み干してグラスを置いた。 「けどね、その頃になると母は小さな妹を連れて家に帰ってしまうんで、父がどこからともなくやってくるんですよ。で、お父さんはカキ氷が食べたいけど、お前なら何味にする? なんて訊いてくれてね。イチゴがいいかな、それともメロンかな、ってね」  彼が悩む間、彼の父親は結論が出るまで待っていてくれる。ようやく彼が食べたい味を決めると、父親はその味のカキ氷をひとつ買う。そして川沿いの遊歩道に座って、ふたりでカキ氷をすくう。最後の氷が溶けてシロップと混ざった汁は彼が飲み干すのが、ふたりの間のルールだったと彼は笑った。 「母さんには内緒だぞ、と父が言ってくれるのが嬉しくてねえ。男と男の約束だ、なんてさ。絶対にお袋には言うもんか、って子供ながらに思ったもんだ。でも、家に帰ってからふたりともお袋に怒られるんだ。舌が真っ赤だったりするから、ばれちゃうんだな。だけどそれも楽しかったな」 「素敵なお父様ですね」 「うん。そうだね――それに比べて、僕はダメな父親さ。今日もせっかくのお祭りだというのにこんなところで飲んだくれてる」  こんなところ、という言葉に対して彼は失礼、と目で謝った。私はいいえと微笑みを返した。 「親父は確かに家にあまりいなかったけれど、僕や妹の誕生日やクリスマスには家にいてくれたし、夏祭りも毎年連れて行ってくれた。親父と同じような仕事についたからわかるけど、それはとても大変だったと思う。でも親父はそれができてたのに、僕は仕事を大義名分にして何もしてない」  私はチェイサーを彼の前にそっと置いた。元のビールタンブラーはそのまま、水滴がコースターを濡らしている。タンブラーを下げると彼に次のドリンクを要求しているように感じられそうで、下げられなかった。 「成田から戻って、一度家に帰ったんだけどね。おかえりの言葉の代わりに、離婚届をもらってしまったよ。僕は玄関から上にあげてすらもらえなかった。出張中に娘が誕生日を迎えたのに、すっかり忘れてたのが決定打だった――ここを知れてよかった。今度はビール以外のお酒をいただきに来ます」  彼がスーツケースを引っ張って出て行ったと同時に、浴衣姿の女性を連れたカップルや、祭りには関係なく酒を飲んでいる常連たちがやってきた。  彼にとっての夏は、子供の頃の記憶にしか残っていないのだろうか。彼の寂しげな背中を思い出しながら、そんなことを考えた。  次に彼がやってきたのは、小学生なら残している夏休みの宿題の多さに頭を抱えるような時期だった。 「車椅子なんだけど、いいかな」 「もちろんどうぞ。カウンターだと背が届かないかもしれないですから、あちらのテーブル席のほうがよろしいでしょうか」 「いや、座るのは大丈夫だからカウンターでいいかな」  もう一度、もちろんですと私は答え、使っていない背もたれ付のカウンター用の椅子を店の奥から持ってきた。ダスターで背もたれや座面を拭き、スツールと入れ替える。そうこうしているうちに、彼が車椅子を押して入ってきた。車椅子には、優しそうな瞳をした老人が座っていた。彼を手伝って、老人を椅子に座らせる。 「前にちょっと話した、僕の親父です」 「倅が世話になったようで、お礼申し上げたくて、無理を言って連れてきてもらいました。椅子の気遣いもしてくださって、ありがとう」  深々と父親は頭を下げた。何を召し上がりますか、と訊ねると、彼はビール、父親はハイボールと言った。 「ベースは何になさいますか?」 「ウィスキーじゃないのかい?」 「日本ではウィスキーソーダをハイボールと言いますが、アメリカではスピリッツをソーダで割ったものならなんでもそう呼ぶんです」  へえ、と父親は眉を上げ、微笑んだ。 「では、スコッチ・ソーダで」  私はデュワーズとソーダを一対三で割り、一度氷を混ぜて出した。 「うん、スコッチ・ソーダだ」  父親は大きく頷いて、私に満面の笑みを向けた。  親子は自分のグラスを手にして小さく乾杯をし、それから何も話さなかった。ふたりでちびちびと酒を飲み、たまに彼が父親に大丈夫かと訊ねる。父親は大丈夫だ、と答え、お前に心配されるようじゃ俺も終わりだ、と混ぜ返す。そんな会話未満のやりとりを楽しんでいた。  時計の針が時を刻んでいく。彼の携帯にメールが飛び込んできて、彼はそれを見て帰らないととため息をついた。 「最後に一杯ずつ飲もう。その時間くらいはあるよ」  彼が名残惜しそうに腕時計を見た。父親は、そうか、と寂しそうに呟いた。 「夏をイメージした酒って、できるかい?」  父親との時間を手放したくないというような調子で、彼は私に訊いた。 「はい。お任せください」  底が窪んでいるカクテルグラスを用意し、クラッシュアイスをミキサーにかける。その間に、グラスのくぼみのところにラム酒を注ぎ、スライスしたライムでふたをする。氷がふんわりとした状態になったのを確認して、ライムの上に氷で山をつくる。ストロベリーリキュールとメロンリキュールのボトルを両手に掲げて親子に見せた。 「さて――イチゴがいいですか、メロンがいいですか?」  両手のボトルとグラスの上の氷を見て、親子は顔を見合わせた。 「母さんには内緒だな」 「ああ。男と男の約束だよ。父さん」  そしてふたりでフローズンカクテルを半分ずつ味わった。最後のラム酒の部分は彼が飲み干していた。その姿を父親は目を細めて眺めていた。 「ありがとう。とてもおいしいカキ氷だった」 「またいらしてください」 「そうだな。今度はもうひとつの味を楽しみに来よう」  ドアまで見送りに出た私の手を、父親はぎゅっと握り締めた。握手とは違う、両手ごとを包み込む仕草に私は圧倒された。年輪を重ねた手のひらが体ごと包んでくれるようだった。私の心ごと抱きしめてくれた彼の父親が消えてしまうまで、私はふたりを見送った。  その次に彼がやってきたのは、夏も終わり秋も深まった頃だった。彼は黒いスーツにネクタイをしていた。親父の葬式帰りで、と彼は呟いた。 「最後にカキ氷食べられて嬉しかったって言ってたよ。君に、お礼を言ってくれって」 「いえ、こちらこそ。楽しい時間でした」 「そう言ってもらえて、親父も喜んでるよ。実は母は五年前に他界しているんだがね、あの日家に帰っても俺たちを叱るお袋の声がしないって気づいて、それから急に元気がなくなっていってね。最後にシロップを一滴唇に含ませたから、あの世でお袋に怒られてるかもしれないな」 「お母様のことを存じ上げずに、失礼なことをいたしました」 「いや違うよ。父は本当に喜んでた。ありがとう」  彼は以前と同じ、ビールを頼み、離婚は回避したのだと話し出した。父親が彼の代わりに彼の妻に頭を下げてくれたのだという。彼の娘、父親にとっては孫娘が、おじいちゃんと飛びついたのを見た妻が、離婚届を取り戻しにきたのだそうだ。 「自分の結婚生活のことまで心配させてしまうダメな息子ですまないと謝ったら、僕がどれだけ年をとろうとどれだけ出世しようと、お前はいつまでも俺の子供だって頭を撫でられてね」  そして彼は妻とやり直すことになった。娘が喜んで、彼の傍を離れないのだと照れ笑いを浮かべた。 「あの日、親父が頼んでいた酒が何か覚えている?」 「ええ、スコッチ・ソーダをご注文でした」 「これからはこの酒を覚えていこう。親父がビール以外を飲むなんて、知らなかったんだ」  彼は二杯目に父親と同じ酒を頼み、そして一口飲むと嗚咽をもらした。 「いい年して涙流すなんて格好悪いな。これから妻がくるんだけど、内緒にしておいてくれないか」 「もちろん。男と男の約束です」  彼はうっすらと赤く染めた目で、私を見て笑った。スコッチ・ソーダのグラスの中の氷が崩れる小さな音がした。 ――了
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