0人が本棚に入れています
本棚に追加
It's Only a Paper Moon
あたし、泉真世。みんなはマヨって呼ぶの。
好きなものはママが作るふわっふわで甘いたまご巻。それに昨日買ってもらったこの靴。ママが靴を新調するからって一緒に行ったデパートで、一目ぼれして買ってもらったんだ。店員さんは、「からし色でとても素敵ですよ」って言ってた。そういえばパパがいつもアジフライにつけてるからしと同じような色をしてる。あたしは、目玉焼きの目玉やママのたまご巻みたいって思ったんだけど、大人の感覚ってわかんない。
ぴかぴか光る革で、ママたち大人の女性がはいてる靴と同じようにちょっとつま先がとがってる。足首をとめるストラップからお星様がぶらさがってて、かかともちょっとだけだけど高いんだ。ね、可愛いでしょ?
「泉がうんこみたいな色の靴はいてる!」
お友達と遊ぶために公園に向かう途中、通りかかった男の子たちが叫んだ。びっくりしたあたしを取り囲んで、男の子たちがはやし立てる。
「違うよ! そんな色じゃないよ!」
「そうかあ? 黄色くってさ、うんこみたいだよな!」
「オレ、こないだ腹壊した時こんなんだった!」
「キッタネエ!」
「あんたの下痢便と一緒にしないで!」
「やーい、泉の下痢便」
「違うもん!」
どれだけ反論しようとも、男の子たちはそうやってあたしをからかって叫んだ。あんまり悔しくて涙がこぼれそうになったけど、泣いたら負けよマヨ、とあたしは自分を励ました。ぐっと唇をかんで、からかう男の子たちを睨みつけたあたしの目には、だんだん涙がじわりとにじんでくる。でもダメ、絶対に泣いちゃだめだからね。
「なによ! あんたたちお子様にはこの靴の可愛さがわかんないのよ! ばーか!」
あたしは必死で叫んで、近所の川まで全力で走ったたどり着くと、背高く生えている草むらの傍に座った。ここなら近くに誰もいなくて、あたしの泣き顔を見られなくてすむ。
一通り泣いて、やっと涙が止まったあたしは、ぐすぐすと鼻をすすった。ポケットからハンカチを取り出して涙のあとを拭いた。それから靴を脱いで、じっと眺めた。空にかざすようにして靴を眺めていると、またあの悔しさがこみ上げてくる。
「こんな可愛い靴なのに、下痢便色っていうなんて、あいつら絶対目がおかしいんだわ」
ぼそっとつぶやくと、誰もいないと思っていた草むらの影から、プッと吹き出す声が聞こえた。驚いてあたしは声のしたほうを見た。へんな人だったらどうしよう、ということはまったく頭になかった。ただ、下痢便なんて言葉を使っているのを聞かれたことが、恥ずかしくてたまらなかった。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」
のそりと男の人が起き上がった。あたしは微笑むその人に、視線、釘付け。クラスの男の子たちなんて、どれだけ成長してもこの人みたいにはならないわ、って思う。黒いリブのVネックTシャツから見える腕も胸板も分厚くて男らしいし、短くてツンツン立っている茶色の髪は小さな顔の彼によく似合ってる。何より、大人で、とってもかっこよかった。
彼は顔にかぶせていた帽子をかぶり直して、ひょいと空を見た。
「お月様みたいな色をしているよ、その靴」
あたしは慌てて彼が見上げている空を見上げた。だんだん暗くなってきた空に、ぼんやりとお月様が姿を見せていた。けどまだ白っぽい色をしていて、あたしの靴の色とはずいぶん違う。
「あのお月様は白いもの。あたしの靴の色とは違うわ」
「ハハ、そうか。そう言われるとそうだね。もう少し遅い時間の月なら、君の靴みたいな綺麗な黄色になるのかな?」
笑いながら立ち上がった彼はすらっとしていて、笑った時にできる目じりのしわまで素敵だった。じゃあね、とあたしの頭をぽんと撫でてくれた彼の手の感触は、彼が立ち去ってからもずっとあたしの中に残っていた。買い物帰りのママがあたしに声をかけてくるまで、あたしはぼおっとして彼が座っていた草むらを眺めてた。
「ママ。きっとこれが恋なのね」
「あらあら。マヨちゃんも大人の女性になっちゃったかなあ」
ねぎが飛び出してるスーパーの袋をさげたママが楽しそうに言った。
あの人はどこの誰なんだろう。川辺でお昼寝してたってことは、きっとこの近くの人に違いない。また彼に会うチャンスはあるはずよ、とあたしは考えた。その時のためにも、もっともっと綺麗な大人の女にならなくちゃ。
けれど、彼とはなかなか会えなかった。それでもあたしはあきらめなかった。だってあんな素敵な人、学校にはいないもの!
「マヨちゃん。ほら、帰るわよ」
いつまでもおやつコーナーでうろうろしてたあたしを、とっくにレジを済ませたママが呼んだ。お星様の形をしたクッキーがほしかったあたしは、それでもおやつコーナーを立ち去れなかった。
「いい加減にしなさい。置いていくわよ」
あたしをしかっているママの後ろに、見たことがある顔を見つけた。彼だった。この間と同じ帽子をかぶって、もみじ色の革のジャケットと濃い青のジーンズと黒いブーツをつけた彼は、スーパーの中でも輝いて見えた。ママのお小言を聞いていたら、彼を見失っちゃう!あたしは頭を床につける勢いで謝った。
「ごめんなさい、ママ。マヨが悪かったわ」
くどくどとママがあたしを怒っているうちに、彼は会計を終えてスーパーを出て行くところだった。もうママにはかまってられない。あたしはママをおいて、彼が乗ったエスカレーターに向かってダッシュした。
「マヨ!」
ママの叫び声がスーパーに響いたが、あたしはそんなことおかまいなしに、彼を追いかけてエスカレーターを駆け上がった。ごめんなさいママ。女には勝負をかける時ってのがあるのよ。
彼は弾むような足取りで街を歩いていた。荒い息を整える間もなく、あたしは彼の尾行を開始した。そしてたどり着いた先は、『Bar METAL MOON』と書かれたプレートが下がっているお店だった。彼はその店のドアを鍵を使って開けた。ということは、お客ではなくてお店の人ってことだ、とあたしは見当をつけた。それなら、ここにくれば彼に会えるってことよね?
あたしは小さなガッツポーズをして、おうちに帰った。
部屋に入って、机の上においてある貯金箱を開ける。パパの肩たたきやママのお手伝いをして貯めたお金だ。新しいペンケースが欲しくて貯めていたけど、この際かまわない。お金を数えたら、小銭ばかりで二千円ほどあった。あたしはそれを全部キティちゃんのお財布に入れて、ランドセルにしまった。
明日の彼との出会いに、あたしはわくわくしてなかなか眠れなかった。
翌日、あたしはまたあの黄色い靴を履いて学校へ行った。靴だけではなく、今日のあたしは目一杯おしゃれしていた。お気に入りのスカートにお気に入りのブラウスを着てて、ちょっとしたお嬢様みたいだと思うのよ。パパも今朝、会社に行く間際に玄関でそう褒めてくれたしね。
ようやく退屈な時間は過ぎ、あたしは『Bar METAL MOON』に向かった。お目当てのお店のドアを目の前にして、大きく深呼吸をする。ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、ドアを開いた。
「いらっしゃいませ」
物静かな声がした。彼の声だ。あたしの心臓は、体から飛び出そうなくらいドキドキしていた。
「あれ……。あの時の黄色い靴のお嬢さんじゃないか。どうかしたの?」
あたしのことを覚えててくれた! 嬉しくて叫びそうになったけど、ぐっとこらえてあたしは微笑んだ。
「一杯いただきにきたの」
一瞬の間があってから、彼はどうぞ、と椅子を指し示した。あたしはパパが見てた映画の中のヒロインのように、にっこりと笑みを浮かべると、背の高いその椅子によじ登るようにして座った。
「何になさいますか?」
お店では短い髪をきれいに後ろになでつけていて、川辺で見かけた時と違ってとてもセクシーな感じだった。白いシャツに蝶ネクタイの細いやつを首につけている。黒のベストに黒の細身のパンツ。ちょっと不良っぽかった川辺の彼と正反対に、ここでの彼は礼儀正しい紳士みたい。
「カクテルください。あたしにぴったりなの」
「かしこまりました。何か苦手なものはありますか?」
「えっと……。ママが作るかぼちゃパイ。あっ、でもママはアップルパイは上手なの。でもなんでかかぼちゃパイはおいしくないのよ」
「そうですか、アップルパイがお好きなんですね」
「うん。大好き。今度、ママがアップルパイを作ったら持ってきてあげる!」
「ありがとうございます。けど、残念ですが甘いものは苦手でしてね。お気持ちだけいただきます。すみません」
彼はあたしと話しながらなのに、グラスを取り出し、何かのボトルを次々と取り出し、それを銀色の道具で量って、やっぱり銀色の道具に注いでいる。注ぎ終わると、マドラーみたいな長い棒でくるっとかき回して、最後にちょっと味見なのか口に含んだ。
全部の動きが流れるように進んでいって、本当に映画かドラマでも見ているかのよう。あたしはわくわくしてテーブルに肘をついて、彼を眺めた。
銀色のコップみたいな道具にふたをかぶせて、彼はそれを空中で振った。中に入っていた氷が、からからと音を立てる。道具を振り終わると、ふたを開けて目の前においてあったグラスに注いでくれた。
「どうぞ。シンデレラというカクテルです」
すっと指でグラスをあたしのほうにおしやって、彼は言った。
その背の高いグラスの足の部分をおそるおそる持って、あたしは一口、きらきら光る黄色の飲み物を飲んだ。
「甘酸っぱい。おいしい」
「それはよかった。あなたの黄色い靴と同じ色だと思って、そのカクテルにしてみました。今日も履いてますね。とてもお似合いですよ」
あんまり嬉しくて言葉が出なかったあたしは、グラスのカクテルを飲むことでその場を誤魔化そうとした。その時、ドアが開いてママが入ってきた。あたしの十二時の鐘は案外すぐに鳴ってしまったみたい。
「マヨちゃん。こんなところで何してるの?」
「このカクテル飲むまで、帰らない!」
「カクテルって……。ちょっと、子供にお酒出すなんてどういうつもり?」
「何かを癒すためにこの店にきてくれた人は、どんな人であろうとお客様です。そしてそのお客様に一番会うドリンクをお出しするのが、バーテンダーの役目です。お嬢さんには、もちろんノンアルコールのカクテルをお出ししています。よろしければ、彼女が飲み干す間、お母様も何かいかがですか?」
あたしはその言葉を聞いてハッとした。こんなに素敵な彼を前にして、ママが彼を好きになっちゃったらどうしよう。どう考えてもおなかが出てるパパよりもかっこいいもの。ママとパパの仲が悪くなるのも嫌だし、それになにより本物の大人の女性のママには、あたしはかなわないんじゃない?
「ママ。帰ろう」
カクテルをぐいっと飲み干して、あたしは椅子から飛び降りた。早くここからママを連れ出さなくちゃ。
あたしは彼にお金を渡して、ママの手を引いてお店のドアに向かった。
「ありがとう。ごちそうさまでした。あのう、また来てもいい?」
「もちろんです。けど、あなたが大人になったらね。それまで、お待ちしてますよ」
彼の優しい微笑みを胸に、あたしはドアを開けた。
彼が作ってくれたカクテルのシンデレラ。今日のあたしにはすぐに十二時はきちゃったけど、シンデレラは最後には王子様と結婚したんだから、あたしだって信じてれば大丈夫。
大人になったその時こそ、靴と同じ黄色い色になったお月様が見える時間に、あたしは彼と会えるに違いない。その日が来るのを夢見て、あたしはおうちまでの道をママと歩いた。
突風のようにして少女はやってきて、出て行った。カクテルグラスを下げて、私は一息つく。
「すげえな、あんなちっこくても女は女だ。見たか、あの子の目。ありゃあ、どっからどう見ても、恋する乙女の目だったぜ」
常連の男性が呆れたように呟いた。呆れ半分、感心半分だったのだろう。言葉の最後に大きく頷いて、彼は私をじろりと睨んだ。
「マスターがモテるのは知ってたけど、まさかあんな幼女までとはなあ。守備範囲広すぎ。お縄頂戴しないように気をつけろよ。というか、ほんとに大人になって来たりしてな」
「あの子が大人になるまでに、あと何年かかると思ってるんです。それまでには私のことなんか、忘れてますよ」
「いやあ、わかんねえぞぉ? それまで待ってるってあんたの言葉、本気で信じてる目だったからなあ」
「グラス、空ですよ」
私が彼のグラスにウィスキーを注ぎ足そうとボトルを持った瞬間、曲が変わった。中年男と少女がしぶしぶ一緒に旅をすることになった映画のテーマソングだった。
「そうか、この映画、ぴったりじゃねえか」
げらげらと笑った彼をため息であしらい、私はドアの向こうに消えていった少女と黄色の靴を思い出した。そして、しばらくはあの川原で昼寝するのはやめよう、と決心した。
――了
最初のコメントを投稿しよう!