五百円のパープルハート

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五百円のパープルハート

 その日は急なことで店を臨時休業にしていて、私は久々にのんびりとした夜を味わっていた。自宅のテレビの前に座り、ビールを飲みながら応援している野球チームの試合を見る。ビールのつまみは冷蔵庫に残っていたチーズと枝豆といった正しい日本のオヤジの姿もまた楽しみのひとつ。程よく酔っ払った頃、私の贔屓チームがリーグ最終戦を勝利で終えていた。思わずガッツポーズをして、新しい缶ビールでお祝いをする。勝利インタビューも見終わって満足してから、私はテレビのチャンネルを変えた。リモコンをテレビに向けてボタンを押していくと、若いタレントが大口を開けて笑っている番組ばかりで閉口する。最後に衛星放送にチャンネルを合わせて、そこがダメだったらもう寝てしまおうと思った。  果たしてスクリーンに現れたのは、男性三人のバンドのライブだった。歌声に聞き覚えがあり、昔の記憶を掘り起こす。記憶の中のそのバンドはドラム、ベース、ギター、ボーカル・ギターの四人だったはずだ。いつの間にかひとり抜けていたということか。  話題を常に仕入れておくというのがバーテンダーの仕事のひとつでもあるが、全ジャンルにおいてというのはやはり難しい。私のバーでは週末にライブを行っているということもあり、音楽関係の話題には敏感になっていたはずなのだが、と反省する。しかし私の反省は関係なく、テレビは彼らのライブを映す。思わずそのプレイに見入り、開けたビールがぬるくなってしまうまで、私はただ音楽に打たれていた。  どうやらそれは何かのイベントライブのようで、複数のバンドがステージを飾っていた。チャンネルを合わせた時に演奏していたバンドの次がトリのバンドだったらしく、彼らが出てくると客席の歓声が嵐となってテレビから溢れてきた。  ライブ映像が終わると今度は出演の全バンドに対するインタビューに変わった。私は最初に見たスリーピースバンドの彼らが何を話すのかに興味があり、彼らが出てくるまでずっと見ていた。二十年近く音楽シーンの中でやってきた自負なのか余裕なのか、彼らはインタビュアーの少し煽るような質問にも、もうすぐアルバム制作に入る、二十年の集大成になると思う、と淡々と答えていた。カメラの向こうの誰かに話しかけるような、ボーカルの男性の深く黒い瞳が、最後まで私の心に残った。本音は心の奥深くに隠して話しているように思えてならなかったのだ。  そして、彼らとトリを飾ったバンドのメンバーが仲良く会話している風景を流して、番組は終わった。トリを飾ったバンドのメンバーの一人、濃いサングラスをかけた長身の男がふざけてギターをひき、スリーピースバンドのボーカルの彼が同じくふざけて歌っている様子が、最後に映っていた。長くやっていると、仲間とも呼べる間柄になれるのだな、と私はテレビの中でふざけあう彼らを微笑ましく眺めていた。  翌日、私が店を開けるとほぼ同時に、この時間の常連である男性が入ってきた。 「いらっしゃいませ。昨日、もしかしていらしてくださいましたか」 「ん、まあね」  はにかむ笑顔を見せて、彼はカウンターの定位置に座った。ビールサーバーとシンクの間に位置するその席は、私がその目の前に立つことがあまりない場所でもある。最初のうちは話を振ったりしたが、やがて私は積極的に彼と話をするのをやめた。話したい気分の時は自分から話しかけてきてくれるというのがわかったためだ。おかげで、長く通ってくださっている常連であるにもかかわらず、私は彼の素性をまだよく知らない。名前は芹沢といって、現在はどこか小さな会社で経理をしているということ、音楽が好きらしいということ、そして無口で人と接触することを好まないということくらいだ。  彼のように、静かに時間を過ごす場所としてバーカウンターにくる人もいれば、バーテンダーや常連同士のつながりを楽しむ人もいる。幸いこのバーのお客には、前者の人に対してしつこく話しかける後者の客はいなかったし、後者に話しかけられて露骨に嫌な顔をするような前者の客もいない。それが何よりありがたかった。またそれは大人のつきあいをお客から教えてもらっていることにもなり、新しいお客がくるといつも身の引き締まる気分になる。  とはいえ会話を好まない彼の場合は、あまり客がいない夕方、オープン時間に来ることを自衛手段としているようだった。 「それは失礼いたしました。皆様に事前にお知らせできず、心苦しかったのです」 「いいよ、気にしないで。他の人はともかく、僕は帰り道だし、コーヒーしか飲まないんだから」 「オーダーの内容は関係ありません。皆様、大切なお客様ですから」  何気なしに口にした私の言葉に、彼はふっと目を伏せて悲しげに微笑んだ。 「大切なお客様、か。そうか、僕はいつの間にか客の立場にいたんだな」  なんと答えようかと逡巡したが、コーヒーサーバが彼のコーヒーを抽出し終わったと主張したため、私は答えを探すのをやめてコーヒーカップを取り出すことを選んでしまった。彼の悲しげな眉間のしわと視線を落す手の震えに、私は怯えていた。  怯えを隠すために、コーヒーをカップに注ぐ。どうぞと差し出すコーヒーカップの持ち手は、必ず右側にしておく。最初はセオリー通り持ち手は左側に置いていたのだが、彼は左手を伸ばしてためらいを見せた後、右に持ち手を変えて右手で持つ、という仕草をしたからだ。そのためらう表情を見たくなくて、私は持ち手を右側にして、彼に差し出す。最初にそうやってコーヒーカップを出した時、彼はハッとしてから微笑んだ。それから声に出さずに、ありがとう、と言ってくれた。それが嬉しかった。  今回もなんとかして彼の微笑みを見たいと思ったが、私にできることはありそうもなかった。少なくとも、この時の私には見つけ出すことができなかった。  いつもの通り、右側に持ち手を置いてコーヒーカップをカウンターに出す。彼はありがとうと言って無言でカップを見つめた。私は普段の準備作業に取り掛かろうとして、カウンターの下に設置してある冷蔵庫をしゃがんで覗き込んだ。するとカウンターの上から舌打ちの音とカップが倒れる音がした。慌てて立ち上がると、カップのソーサーにコーヒーがこぼれていた。 「申し訳ない」 「いいえ。そんなことより、濡れていませんか?」  ダスターをカウンターにおいてから、おしぼりを彼に渡そうとすると、彼は手を振って大丈夫、と言った。私はおしぼりを引っ込めて、コーヒーカップを下げる。新しいコーヒーをセットしてから、カウンターを拭く。 「すまない」 「いいえ。もうしばらくお待ちください、すみません」 「ありがとう」  下げたコーヒーカップを見て、私は彼の顔を思わず見る。カップの持ち手が左手側にあった。左手で持とうとして、手が滑ったのだろうか。見つめていた私の視線の先に、彼の瞳があった。 「失礼しました」  ハッとして私は目をそらし、カップを片付けた。  彼の瞳の縁には、うっすらと涙の粒が浮かんでいた。  それから他の客がくることもなく、二人だけの店内で、私は氷を削ったりフルーツを切ったりといった作業を続け、私の手元を見ながら彼はたまにコーヒーを口に入れる、という無言の時間が続いた。そろそろ食事を終えた客がやってきそうな時間になると、彼はいつもどおり、会計を頼んだ。 「いつもありがとうございます。五百円になります」  私がそらで金額を告げると、彼はスーツの内ポケットから財布を取り出した。ちょうどその時、新しいお客が入ってきて私はそちらに目をやった。 「いらっしゃいませ」  初めての客だった。一般人にしては茶色すぎる髪、ジーンズとブーツと滑らかな光沢のシャツ、胸元からのぞく大振りなアクセサリー。どう見ても普通の会社員には見えなかった。その客は店内をぐるりと見渡した。設置しているスピーカーを見て眉を動かし、かかっている音楽に気づいて口の端を動かした。  彼が以前、聴きたいんだといって持ってきてくれたCDが、今のBGMだった。私もそのミュージシャンが気に入り、数枚アルバムを購入したこともあり、夕方の音楽はだいたいこのミュージシャンになっている。音楽のことに気をとられているうちに、新しい客は彼の隣に立った。スツールに座ろうともしない。 「よう」  声をかけられた彼は、びくりと肩を震わせ、声をかけた客のほうをこわごわ向いた。 「――セキ」  時間が止まってしまったかのように彼は隣に立つ男の顔を見つめ、そして息を吐き出しながら、男の名前を呼んだ。 「こんなとこで油売ってていいのか。あいつら、次のアルバム出して解散するって言ってるぞ」 「俺には関係ない」 「関係ない? ふざけんな、あいつらがバンド名から『XD』取って活動してる理由、わかってんのか」 「知っていたところで、俺がまたバンドに戻ることはない」 「セリ、すねてるのもいい加減にしろよ。そもそもここはバーだろ? 酒場でコーヒーとか飲んでんじゃねえよ、XD一の酒豪だった男が」  カウンターを拳で叩いて言った男の言葉に、それまでうつむいていた彼が男を睨みつけた。 「首のちっちゃな骨がおかしくなったおかげで、俺の左手はもうコーヒーカップひとつ持ち上げる力も残ってない。レントゲンにすら写らない、小さな小さなひずみだよ。お前にはわからないだろう、痛みで眠れず、やっと寝ても痛みで目が覚めるから、眠り続けるための薬がないと眠れないなんてな。その薬を飲んでいる以上、酒は禁止だ。ギターもそうだ。手が震えて、痺れて、滑って、今までできていた手の動きができなくなる。まともにコードも押さえられない自分に気づいた時の恐怖が分かるか。俺はもうあんな恐ろしい思いをするのは嫌だ。ギターを失うのなら、自分から捨てたほうがマシだ」  そこまで叫ぶと、彼は再びうつむいて財布から千円札を取り出した。 「いくらだ」  彼から札を受け取ろうとした私の手を掴んで、男は私に訊いた。 「――五百円です」 「俺が払ってやる。酒が飲めないなら、コーヒーを飲んでいればいい。そんなもんでお前の心が落ち着くってんならな、五百円のコーヒーくらい何万杯でも俺が飲ませてやる。けど、お前の辛さなんか、俺には分からねェよ。どんだけ痛いかも、そんなこと俺の知ったことか。俺が分かってるのはたったひとつで、お前のいる場所はバーのカウンターじゃなくて、会社のパソコンの前じゃなくて、ステージの上だってことだ。こんなところでくすぶってるお前は見たくない。待ってる、戻ってこい」  言いながら男は尻ポケットから財布を出して、五百円玉を私の手の平に押しつけた。 「やめてくれ」 「うるさい。悔しいなら返しにこいよ。ステージまで。お前が戻ってくるなら、うちのライブにゲストで呼ぶ。俺がそっちにいったっていい。とにかく、俺はステージ以外ではお前から何も受け取らない。いいか、待ってるからな。セリ」  男はそう言い置いて、店から出て行った。ドアの前で胸元から取り出したサングラスは、私が夕べテレビで見たギタリストがかけていたサングラスと同じものだった。ああ、あのギタリストなのだ、と思っていると、声がした。 「マスター、チェック」  千円札を私に差し出す彼の目は、お願いだから受け取ってくれと訴えていた。私は悩み、彼からお札を受け取った。そして代わりに彼の手に、男が残した五百円玉を乗せた。 「おつりです」  彼は手の平の中の五百円玉をしばし見つめ、ぐっと握り締めて、財布ではなくスーツのポケットに入れた。 「ありがとう」  カップの持ち手を右側にして最初に出した時に見せてくれた微笑みを残して、彼は店を出て行った。  あの日、彼にコーヒーをおごった男――「リー・エンフィールド Mk III」というロック・バンドのギタリスト、関真一が交通事故で死亡したというニュースを聞いたのは、それから数日後のことだった。  そして彼はあの日以降、店には来なくなっていた。平日はほぼ毎日のように来ていた客がこなくなるというのは、それが誰であれ何かあったのではないかと私まで不安になる。彼の場合は最後の微笑みが気になっただけに、なおさらだった。彼の微笑みと、音楽の話をする優しい声が早くも懐かしかった。コーヒーだけですみません、という穏やかな表情を見なくなって丸一ヶ月になる。いつかまた来てくれるだろうか、どこかで会うことがあるだろうか、と思いながらも、私の日常は彼不在のまま、進んでいた。  すでに日本シリーズも終わり、私の応援チームはクライマックスシーズンを制したものの、日本シリーズでは一勝の、いや一点の差で涙を呑んでいた。試合を見ることはなかったが、結果だけはチェックして落胆した私に常連の客が酒をおごってくれた翌日、彼は再びいつもの時間にやってきた。 「いらっしゃいませ。お久しぶりです」 「うん、そうだね。久しぶり。元気そうでよかったよ」  襟足まで伸びていた髪をさっぱりと切り落としていた彼は、いつもの場所に座ってコーヒーを、と言った。私は頷いて、コーヒーの準備をする。 「マスター、野球、残念だったね」 「そうですね。今年こそは、と思ったのですが。まあ、まだ若い選手もいますし、来シーズン、また期待してます」 「前向きだなあ。ほら、あの有名な選手、今年で引退なんだろ? 彼に日本一を上げたかったとか、そういうのはないの?」  彼はカウンターに肘を乗せた。 「そりゃあ今の選手たちでシーズンを獲ってもらいたいとは思いますけど、どんな選手でもあのチームにいれば私の応援すべき、愛すべき選手です。だから来年の選手たちがもしシーズンを獲ってくれたら、もうそれで満足なんです私は、野球に関してはあくまで観客ですから」 「まったく選手層が変わっても?」 「はい」 「たとえば、投手のチームから打撃のチームに変わっても?」 「はい」  珍しく饒舌な彼の会話の落ち着く先は見えなかったが、私は自分の感じていることを素直に口にした。 「そう……。応援するって、そういうものなのか」  体を乗り出すようにしていた彼が、腰を落ち着けた。 「他の人はわかりませんけどね。少なくとも、私はそうですね」  そう、と彼はもう一度言った。そこからはまた私と彼の間には無言の時間が流れた。この沈黙が心地よくて、氷を削る音もどこか弾んでいた。やがてコーヒーを飲み干した彼は呟いた。 「マスター。俺、しばらくこれなくなるから。飲み納めにきたんだ」 「そうですか」 「だから最後に、マスターの酒、飲ませてもらいたい」  彼から、お酒という単語が出てくるとは思っていなかった。一瞬ためらうと彼は、いいんだ、薬はやめた、と言った。 「お嫌いなものはありますか」 「ないね。アルコールが入っているなら、なんでも好きだ」  きっぱりと言い切る潔さに私は思わず苦笑して、それからマイヤーズのボトルに手を伸ばした。背後の棚からファッショングラスを出して、ボトルと一緒にカウンターに並べる。次にコアントローを出そうとしてやめ、バカルディを選ぶ。  カウンター一列に並べたマイヤーズ、バカルディ、それにライムジュースとレモンジュースをシェイカーに入れる。  初めて彼のためにシェイカーを振る。  それが彼とのお別れの酒になることは、よく考えれば当たり前だったのかもしれない。彼にとってここは、コーヒーを飲む場所だったのだから。  シェイクを終えて、シェイカーの中の氷をグラスに入れ、最後に中身を注ぐ。ジュースが混ざってダークラムのブロンズ色が少し薄まったカクテルは、琥珀のような輝きをグラスの中で放つ。 「どうぞ。オーディナリー・シーマンです」  ラムの刺激にレモンとライムの甘酸っぱさが混ざり合ったすっきりしたカクテルだ。彼の口に合うのか不安だったが、彼はためらわず左手でグラスを持って、口に運んだ。薄く開かれた唇の間に、琥珀の液体が流れていく。喉仏が上下して、アルコールが彼の体に染み渡っていくのが見えた。グラスの半分ほどを飲んでから、彼はグラスをカウンターに戻した。口元を手の甲で拭い、その水滴すらも惜しいとばかりに舌を出して手の甲を舐める。  なんと艶っぽく酒を飲む人なのだ、と私はまるで女のように彼に見とれていた。そんな私を笑って、彼はおしぼりちょうだい、と手を出した。私は我に返り慌てておしぼりを彼に差し出す。ありがとうと受け取る彼の手は大きく、細長かった。 「オーディナリー・シーマンって、どういう意味?」 「二等水兵です。ようするに、一番下っ端の水兵さんですね」 「へえ……」 「私、実は軍隊にいたことがありまして」 「えっ?」 「陸軍でしたし、二等水兵よりももう少し上の階級だったのですが、とある戦場で何度目かの負傷をしまして、それが原因で除隊したんです。除隊して初めて行ったバーで作ってもらったのがこのカクテルでした。舌にぴりっとした刺激があるのに、反面柑橘ジュースが爽やかな後味を残すもんだから、思わず飲みすぎてしまって――それ以来そこのオーナーに世話になってました。後からバーテンダーに、何故この酒を出したのかと訊いたら、パープルハートだ、と言われました」 「パープルハート」 「ええ。米軍の名誉戦傷章のことです。バーテンダーは米軍出身だったようで、パープルハート代わりにこのカクテルをくれたんです。人生では誰もが二等水兵だって、口癖の男でした。うまく言えませんが、負傷した男が再び戦場に立つというのは、並大抵の心ではできません。それは私がよくわかっています。恐ろしくて足が震える。だからこそ、戦場に立てる人間、ステージに立てる人間は限られているんです」  彼はグラスの縁を指でなぞりつつ、私を見つめた。前髪を切ったせいか、彼の瞳がやたら輝いてみえる。 「ステージまで返しにこいって言ってたヤツが死んでさ。俺はどこに返しにいけばいいんだ。あの時の五百円玉はまだ俺の手の中にあるってのに。クソ、先に逝っちまうなんて卑怯だろ」 「それではその残りのカクテルは、芹沢さんの首の負傷とそれを克服する勇気を与えた関さんの魂に。私からのパープルハートです」 「最前線しか生きる場所がないなんて、本当に、二等水兵みたいだな」  まぶたを伏せて笑みを浮かべ、彼はグラスを掲げた。ライトに照らされた琥珀色が、彼の頬を光で染めた。輝いてみえた彼の瞳が揺れていた。  次に彼に会ったのは、都内のとあるCDショップだった。  「復活」と書かれたポスターの中でギターを抱えている彼は、私の知っている彼だった。着ているものは違っていたが、彼の優しいまなざしがそこにはあった。嬉しくなって、私はそのCDをレジへ持っていった。発売記念特典といってポストカードがついてきたので私は別の店へ行って額縁を買い、そのポストカードを店に飾ることにした。  開店していつものように客へ酒を出し、会話をして過ごす。真夜中過ぎてやってきた常連の女性が、額縁の中のポストカードを見て、あっと声をあげた。 「マスター、XD、好きなの?」 「エックスディ?」  何を言われているのか分からず間抜けな顔をしていただろう私に、彼女はポストカードを指さしてもう一度言った。 「もう。このポストカード、スプリングフィールドXDの新譜の特典でしょ?」 「あ、ああそうか。そうそう。そんな名前のバンドだった」 「この人たち、ギターが抜けてからずっと、XDってところを削って、スプリングフィールドってバンド名にして活動してたんだよ」  そうして彼女が語ってくれたバンドの歴史は、あの日、私が知ったことから想像できる範囲のものだった。  ギタリスト――芹沢さんだ――は、バンドの人気に火がついた頃に腕が動かなくなり、突然脱退する。首に障害が出てのことだと知っていたのは、メンバーとわずかな友人だけだった。世間的には「健康上の理由」というもっともらしい理由だけが伝えられ、そして三人になったバンドは、もともとボーカルもギターを弾くスタイルだったため、ギタリストを迎えることなく三人のまま活動を続けた。ただし、バンド名から「XD」を外して。自分たちはピースが欠けているとさりげなく、だが明確にしながら。  交通事故で亡くなった関真一は特徴あるギターでファンが多く、亡くなったことで更にその名声が高まっていた。そのギタリストが唯一認めた男が、彼だった。お互いを「ギターを失ったら何もなくなるギターバカ」と称していたふたりが同じステージにあがったことは、バンドが違うためにほとんどなかった。今や夏の風物詩にもなっている音楽フェスティバルで一度、テレビ局が主催したイベントライブで数回。公式にはそれだけだ。そしてその回数が増えることは、決してない。  客がいなくなった明け方、店を閉める仕度をほとんど終えて、私はカウンターに座っていた。目の前にはバカルディが入ったグラスがある。店のスクリーンでは、録画したテレビ番組が流れている。  本当はあの時、違うカクテルを作ろうと思っていた。XYZというアルファベット最後の三文字を名前に持つカクテル。最後だから、といった彼の言葉と、彼のバンドがスリーピースだったことから思いついた。けれどやめたのは、彼が戻れば三人ではなく四人になるのだし、それにあれを最後にはしたくなかったからだ。それで、とっさに他のカクテルにした。あの日の彼にぴったりのカクテルだったとは思えないのだが、あの時の私には他に思いつかなかった。禁酒法時代やキューバ革命といった危機を乗り越えてきたバカルディというラム酒に彼の試練を重ね合わせた、などはあとづけの理由だ。昔もらったカクテルの味と、そこにこめられた理由を知った時に感じた気持ちを彼に伝えたいという私のエゴが、オーディナリー・シーマンを出した唯一の本音だった。  戦場に立てるのは限られた人間だ。そして戦場とは、弾丸が飛ぶ本当の戦争だけではない。お前が選ぶ戦場はどこだ、私の恩人たるバーテンダーとオーナーはそう言いたかったに違いない。戦うことをやめたら、お前は本当に二等水兵のまま、浮かび上がることはないのだぞ、と。  私はバーを戦場に選び、自分が主役を演じるのではなく、酒という主役を客というもうひとりの主役に提供する、いわば裏方に引き下がった。主役でありたい気持ちは今でもあるが、私が主役でいられるのはここではない。そしてもうその場所には戻れない。  だから、ステージという戦場に戻れる彼が羨ましかった。もしかしたらそんな嫉妬が、あの時XYZを選ばなかったもうひとつの本音だったかもしれない。  グラスの中の氷が崩れる音がして、私は酒をあおった。番組の中では、ようやくスプリングフィールドXDの出番となっていた。  ステージには弾かれないギターが一本、お守りのように隅に置いてあった。カメラがそのギターに寄る。ギターのネックにはペンダントが大切そうに飾られていた。関真一が最後に弾いたギターだとナレーションが紹介する。  それを見て私は思った。次に彼が店を訪れて、もしもその時にお酒をサーブさせてもらえるのなら、今度こそXYZを作ろう。「これ以上ない最高のカクテル」という意味をもったお酒を。  ギターにかけられたチェーンの先には、五百円玉が鈍く光を放ちい、彼のステージを見守っていた。 ――了
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