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学び
さて、今日は春休みが明けて、久しぶりの授業だ。気を引き締めて行こう!
……と、自分を鼓舞した矢先、手汗が吹き出した。教室の戸を開け、生徒たちの机に出ている教科書を確認すると、自身の失態に気がついたからである。
教科書は四年に一度、内容の更新が行われる。そのため、引き続き同じ教科書を使うことができるのは四年まで。私は見慣れた中一の数学の教科書を持ってきてしまったばっかりに、更新後の教科書を忘れてきてしまったのだ。
静かな教室に授業の開始を告げるチャイムが鳴った。前回の授業の時に「次回は授業をする」と生徒へ言っていたため、今更他のことをするなんて考えられない。そもそも、授業以外のものを準備していない。恒例の自己紹介も前回やってしまったので、こういう時のためのネタもない。
ないない尽くしでチャイムの残響もなくなる。重い足取りで教壇に上がり、生徒たちを見渡す。生徒たちの輝く目を全身で感じた。中学へ上がる際に「算数」から「数学」へ変わることへの興味の表れである。いつもなら期待に答えてこちらも笑顔で授業を始めるところであるが、今回はそうもいかない。買い物の会計時に財布がなかった時のような焦りと罪悪感が襲いかかり、額を汗が伝う。
しかし、四、五人ほど気だるげで興味なさそうな生徒がいて、少しばかり救われた気がした。いつもであれば腹立たしい気持ちになるのに、おかしな話だ。ひとまずハンカチで汗を拭い、一息つく。
ともかく、この時間はどうするべきか。マイナスの特徴でも教えておけばいいだろうか。だが、その一つを教えるだけで五十分もかかるとは思えないし、そもそも練習問題をさせなくては力にならない。
「一時間目の授業を始めます。礼」
この時間をどう乗り切るか考えている間に授業開始の号令がかかった。
「よろしくお願いします!」
元気いっぱいの声にまた押し負けそうになる。そう、自分が教科書を忘れたことを認め、謝れば許されることだ。しかし、私は生徒の鏡である。そのため、忘れ物をすることも、間違いを犯すことも許されない。
無理矢理にでも授業を進め、教科書を忘れたことを誤魔化すしかない。そうだ、教科書の更新なんて、そんなに変わっているはずがない。数学に更新の余地なんてないはずだ。いける……。
「では教科書の正負の数という項目を開いてください」
正の数と負の数の分け方やマイナスの特性を教え、順調であった。このまま上手く行くと思っていた。
「それでは、教科書の練習問題を解いてください。分からないことがあれば隣同士教え合うか先生を呼んでください」
「……先生、練習問題って何ページですか? 演習の間違いですか?」
「それよりも先生、さっきから教科書見てないけど、教科書忘れたんですか?」
最後の最後にバレてしまった。
「……恥ずかしながら、そうです。黙っていてすみません」
あぁ、もう、先生としての威厳も尊厳も失墜した。これからどう生徒たちにものを教えたらいいのだろうか。
「言ってくれれば私の教科書貸してあげたのに」
「え、それでは君の教科書がなくなってしまうではないか」
「私は隣の人と一緒に見るから大丈夫だよ」
「そうか……」
学校は学びの場。教わるのは生徒であり、先生でもあるのだ。
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