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その日から…少年は、橋の向こうの人気のない広場を、しばしば訪れるようになっていたのでした。
男は…いえ、旅行案内の窓口の店主は、居ないことがほとんどでした。
ですが、めぐり合わせの良い時には、例のベンチに掛けていることがあったのでした。
そして、そんな幸運な日には…少年は男へと、案内をねだったのでした。
すると店主は、たいていの場合…短いけれども、とても素敵な旅行へと、少年を連れて行ってくれたのでした。
そのことばが、風景であり、色彩であり、温度であり、そして匂いであり…。
白黒の写真と、あの擦り切れた地図が、旅行券であり、航空券であり…そして、当然だけれど、ガイド・マップであるのでした。
少年は、写真の一枚か、地図の一点を、気まぐれに指差すだけです。
それをするだけで…氷の板のようなベンチに座りながらに、少年は世界のどこへでも行けるのでした。
赤道直下のサンゴの海で、巨大な魚とたわむれたり…。
果てしない砂漠を行き、熱砂の熱さに足の裏を焼かれたり…。
密林の奥にたたずむ、古いながらも精巧な、石造りの構造物を眺めたり…。
東洋の帝国の、黄金色の大がらんの中に眠る、黄金色の異教の神の像を前に、冷や汗を流したり…。
太陽の神を信じる人々の、ふしぎな儀式に心を躍らせたり…!
ときに…少年には、どうしても気になることがありました。
それとは…写真の裏面にも、地図の一面にも、びっしりと書き込まれてある…細かな文字のことにほかなりませんでした。
店主のものらしい、筆跡ではあるけれど。
異国の言語とも、記号ともつかない…こまごまとしたその文字は、何なのだろう…?
とうきびの茂る中南米の都市へと、皇帝の神殿を見に出かけていた時のこと。
少年は、その文字のことを、店主へとたずねてみたのでした。
「エノク語だよ、これは」
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