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今の私が思うこと
ほとんど自分用のメモなので、悪しからず。
現場に出てから初めての職種変え?をするので、なぜその選択に至ったのかをメモします。
最初から、病院で働くつもりで心理の勉強を始めました。それは、自分の関心が精神分析にあったからで、スタートは医学でしょう?だからやっぱり働くなら医療現場だよねって。
それからそれ以前に、私はやっぱり『育ち』というものに格別の思い入れがあるのです。『育ち』っていうのは、その人が生まれてから今まで、何を経験して、何を考えて、何を選択して、ここにいるのか、という事を指しているんですが…
そういうものに強い関心があったから、そもそも心理学を勉強しようなんて思ったのだし、だからこその精神分析だし、だから多分、本や漫画や映画が好きなんだと思います。
どう『育つ』と人はどうなるのか。どう『育った』から、私は私なのか。
心理学は実学ではなくて、哲学だと思っていて、でね、そういう意味で『治療』とはあまりにも相容れない。
ここが、私が医療から離れようと思った一番大きいところかなぁ、なんて。昨日仕事を終えた後に考えていました。
カウンセリングは治療のためのものじゃないと思っています。私は。
何かを治したり、何かを変えたり。そういうことを目的としている何かではない。
もちろん、カウンセリングの途上で何かが変化することはあり得るし、その変化がたまたま(医療の文脈における)治療的な働きをすることもあり得ます。が、それはカウンセリングの目的ではあり得ない。
じゃあ何が目的なのかというと、私的には、『わたし自身がどう育ち、今どういう形なのかを知ること』だと思っています。
私が『治療』に対して感じる不快は、善悪二元論的な区切り方にあります。
カウンセリングの目的は『知ること』。それはただ知る、ということであって、そこで知った何かには善も悪もないと思っていて、そういう中庸が、私はカウンセリングの醍醐味だと思います。価値の放棄が、最も重要なんじゃないかな。誰に対しても、同じ態度でいられること。それが、セラピストとしてカウンセリングをしている時の私の、唯一の専門性と言えるものなんじゃないかな。
病院で、先生って呼ばれることがあって、それもすごく苦しかったなぁ…
呼び方なんて些細なものなのだけれど、先生と呼ばれている私は中庸じゃないんですよね。先生だと思われちゃってる。そこでは私はもう心理臨床家としての専門性を失っていて、じゃあ私はここで何をしているんだろうって。
私は、私とあなたとで織りなすカウンセリング空間を、価値という概念そのものがなくなった場所にしたいと思っていて、ただそのために、私にできるすべてのことをしたい。
価値の概念はないから、なんでも話せるし、何を話しても許容される。
いけないことをした、と思ったら隠すし、苦しみの最中にいる相手に自分の嬉しかった話はしないと思います。それは、ルールとか、“いい人”像とか、そういう価値があるからで、普通に生きている限り人は、そういうありとあらゆる価値から逃れることはできない。
他人の決めた何かの価値に、がんじがらめにされて生きていて、そういう中で、いい子悪い子、善悪、美醜、優劣…そんな二元論が出てくるんじゃないかなぁと。
生きるってことは、誰かが決めた価値に従うということなんだよなぁと。で、私たちは割と、そういう“外から与えられた価値感”で自分を測っていたりするんです。それで“自分でダメだー”って思い込んでいたりする。
けど別にそんなことなくない?
だってその『与えられた価値』は本当に、あなたにとって価値あるものなの?
という問いかけをするのが、カウンセリングの一側面なのでは?ないかな?とかね。
社会的価値は有意味です。その価値観が社会秩序を作っていて、価値基準(規則、と言い換えてもいいかも)がなければ、社会は社会としてのまとまりを失ってしまうと思います。
ただ、その価値ですら流動的なものです。戦時中の価値観で生きる人が現代に突然現れたら?彼はここでは適応できないと思うなぁ。
価値基準に従わないことを勧めるわけではないです。ただ、価値の流動性を納得づくで認めて、『わたしの価値観』を見つけ出すことができたら、それって多分、生きやすさにつながるんじゃないかなーと。思うわけです。私は。
だから、そこまでの橋渡しとして、『“価値”のない空間』が作れたらいいなと、そう思っているんだと思います。
私は、あなたがどう『育って』きたか知りたい。モチベーションがそれだけなので、やっぱり私には、先生も『治療』も向いていなかったのだろうなぁと、そう思う今日この頃です。
また5年経ったら考えが変わるのかなーとか。
そんなことを思う、今日この頃。
2021.2.16 温かな日差し差す鈍行列車に揺られながら
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