幸せを消去します

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 おとなになったら、けっこんしてね。やくそくだよ。  覚えたてのひらがなを、一生懸命に書いたあの日。持ち方を覚えるための三角形の鉛筆じゃなくて、キラキラのピンクのペンを使ったの。ペンが紙に当たる感触はなんだか硬くて、いつもより書きにくかったけど、一生懸命に書いたの。そうしたら、(しゅう)くんと結婚できるって信じてたの。 「ほら、夕夏(ゆか)も」  ――私も撮らなきゃ駄目?  なんて、そんなことを言うほど子供じゃないよ。もう中学生だから。お母さんとおんなじポーズでスマホを掲げて、秀くんと、秀くんのお嫁さんを画面に収める。顔認証の四角い枠の中、秀くんも、秀くんのお嫁さんも笑っている。キラキラした笑顔って、きっとこういうの。  画面下の丸いボタンを押したなら、ふたりの笑顔は勝手に保存される。同じボタンを三回押した。三回も保存された。ずるいな。こんなに簡単に、幸せな瞬間が保存できるなんて。  ようやくひとりきりになれたトイレの個室、撮ったばかりの写真を表示させた。キラキラの笑顔はキラキラのまま、三ヶ月前に買ってもらったばかりのスマホの中に。  ぽとり、と画面に涙が落ちた。お嫁さんの真っ白なドレスの上、私の涙がみっともなくにじむ。  秀くんは、覚えてないよね。私との約束なんて。ううん、もしかしたら記憶の片隅で覚えてくれていたりはするのかな。でも、どっちだって一緒だよね。あんな約束、約束だって言えないもん。分かってるもん。  撮ったばかりの写真、ゴミ箱のマークを次々にタップして、三枚とも全部消してやった。そうしたら、ちょっとは清々するかと思ったから。ほら、幸せな瞬間は、簡単に保存できるかわりに簡単に消してやれるんだからって。  でも、清々なんて全然しなかった。秀くんと、秀くんのお嫁さんの幸せは、こんなことじゃ消えないって本当は分かってるから。それどころか、悪いことをした気持ちで苦しくなった。私は、秀くんと、秀くんのお嫁さんの幸せが消えればいいって思ってしまったんだって。  こんなきたない気持ち、キラキラのペンで一生懸命にひらがなを書いた頃には知らなかった。いやだよ、消えてよ。写真じゃなくて、この気持ちが消えて。消えてよ。消えてよ。消えてよ。――でも、何度唱えたって、消えなかった。  そうだよね、消えないよね。人の気持ちって、そんなに簡単なものじゃないもん。私はまだ大人じゃないけど、それが分からないほど子供じゃないよ。  ぎゅっとくちびるをかみしめて、写真のフォルダを操作する。消した写真を元に戻すマーク、ほっぺたの涙を手で拭いてから、一息にタップした。  画面にふたたび現れた、秀くんと、秀くんのお嫁さんのキラキラの笑顔。  秀くん。大好きでした。私はもう中学生だから、ちゃんと、ふたりに幸せになってほしいって、一生懸命に願います。
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