プロローグ

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プロローグ

「お父さん、お母さん。 いままでお世話になりました。 育ててくれてありがとう」 私が三つ指をつくと、あたまの上ですんと鼻を啜る音がした。 「……別にお前に、感謝されるようなことはしとらん」 黒留を着た母は、涙を堪えきれずにハンカチを目頭に当てている。 不機嫌そうに視線を逸らした紋付き袴姿の父も、必死に涙を堪えているようだった。 「でもこれで最後だから。 もう、お父さんにもお母さんにも感謝の言葉すら伝えられなくなる。 だから、これから先の感謝をいま、伝えたいんだ」 「心桜(こはる)……」 とうとう母が、私に縋って嗚咽を漏らし出す。 父の堅く握られた拳は、ぶるぶると震えていた。 本当に親不孝な娘だと自分でも思う。 でもこれは私が、――決めたことだから。 「……そろそろよろしいですか」 「はい」 狐の半面をつけた男から声をかけられ、立ち上がる。 「元気でね。 もう私たちにはなにもできないんだから」 「うん、お母さんも元気でね」 涙を拭ってまたすんと鼻を啜った母の目は、真っ赤になっていた。 「ふん。 お前なんぞいなくなって清々する」 父が憎まれ口を叩くのは、反対にその気持ちを隠したいからだともう知っている。 少し前までその言葉通り取ってよく喧嘩していたが、それすらもいまは懐かしい。 「いなくなったら淋しがるくせに」 「……うるさい」 ぷいっと視線を逸らした父の目にもうっすらと涙が浮いていた。 そういう私も何度も目もと擦ったせいで、化粧が剥げていないか心配になってくる。 「じゃあ、行くね」 「ああ、元気で」 いままで育ててくれたお礼と、最後のわがままをきいてくれた感謝を込めて、両親へあたまを下げた。 「あら、雨ね」 外に出た母の声につられて私も空を見上げる。 眩しいくらいの晴天なのに、雨がしとしとと降っていた。 「本当に狐の嫁入りだな」 苦笑いの父に私も苦笑いしかできない。 「幸せになれよ」 「はい」 空元気でもいいので目一杯明るく笑う。 父も母も笑ってくれた。 促すように父が小さく頷き、私も頷き返す。 狐の半面をつけた介添えの女性に手を取られ、一歩踏み出した。 ――これでもう、二度と両親に会うことはない。 狐の半面をつけた、和装の男女の花嫁行列は雨の中を粛々と進んでいく。 雨が降っているというのに不思議と濡れなかった。 きっと、そういうのものなのだろう。 「心桜」 案内された神殿では、紋付き袴の彼が待っていた。 「本当にありがとう」 私の手をぎゅっと握る彼に伴われて祭壇の前に立つ。 神殿の中で面をつけていないのは私ひとり。 完全にアウェイだが、ここでやっていくと決めたのだ。 「緊張してる?」 小さく頷いたらまた、彼が手をぎゅっと握ってくれた。 「私は心桜を幸せにして守るよ。 これは、心桜に誓うから」 彼が私から手を離し、厳かに式がはじまった。 私は今日、――お稲荷様の妻になる。
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