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第1章 狐に嫁入り
私がその人と出会ったのは、小学校二年生の秋だった。
「悔しかったら取り返してみろ!」
同じ学年の男子――幸太が、私のランドセルから取ったキーホルダーを手に駆けていく。
「返して、返してって!」
それは、前の小学校で仲のよかった友達がお揃いで、別れるときに渡してくれたものだった。
少し前に都会から九州の片田舎に引っ越してきた私は、全く周囲に馴染めずにいた。
村にはコンビニなどなく、日用品から食品まで取り扱うスーパーという名の商店が一軒あるのみ。
村の外に出ようにも、公共の交通手段は一時間に一本あるかないかのバスだけだ。
一番近くのおしゃれな場所といえば、車で一時間以上かけて行く大型ショッピングセンターしかない。
「ほら、早く取り返さないと捨てるぞ!」
「ダメ!
返してっ!」
幸太の足は次第に山道へと入っていく。
私もその後を必死になって追った。
引っ越した祖母の家が、古くて暗く、汚いのも私の不満のひとつだ。
いまなら味のある古民家だと喜べそうだが、小学生の私から見れば薄気味悪い家でしかなかった。
電気を点けていても家の奥は暗く、そこになにかが潜んでいそうで私の恐怖を掻き立てる。
この引っ越しが祖父を亡くしてひとりになった祖母を心配してのことだと理解はしていたが、不満しかなかった。
あとから知ったことだが、そのときの母はパート先の人間関係からそれに付随する近所付き合いに悩んでおり、父はそんな母を思ってこの引っ越しを決めたらしい。
まあ、そんな事情を知ったところで小学生の私は理解しなかっただろうが。
「返してって、それしか言えないのかよっ」
「大事なものなの!
返してっ!」
あと少しで届く、手を伸ばすものの幸太はひょいっとかわしてまた先へ進んでいく。
「なんで返してくれないの!?」
顔は汗と涙でぐちゃぐちゃ、散々走ったせいで呼吸も苦しい。
それでもまだ、諦めなかった。
不満たらたらで転校した小学校は、全校合わせても二十人もいなかった。
父は先生によく見てもらえるからいいだろ、なんて言っているが、嬉しいわけがない。
しかも私と合わせてたったふたりしかいない二年生の幸太は、意地悪だった。
お気に入りの服に泥団子をぶつけられたり、私の髪から取ったリボンでザリガニ釣りをしたり。
そして今日は、大事なキーホルダーを取られた。
「ほら早く……あっ」
「あっ」
指の先でくるくる回していたキーホルダーは幸太の指から外れ、飛んでいく。
「お、お前が早く取り返さないから悪いんだからな!
オレ、しーらない」
「あっ」
幸太が私を押しのけ、その衝動で尻餅をついた。
顔を上げたときには幸太の姿は遙か先にある。
「どうしよう……」
キーホルダーが飛んでいった先に目を向ける。
そこはうっそうと茂った藪だった。
「探さないと……」
藪の中に入り、キーホルダーを探す。
手足はすぐに傷つき、泣きたくなった。
「どこ、どこいったの?」
半べそで藪をかき分けて探す。
が、それはどこにも見つからない。
しかも夢中になって探すうちに森の奥深くに入ったのか、辺りは暗くなってくる。
「ここ、どこ……?」
気がついたときには民家どころか道すら見失っていた。
――ガサッ。
「ひぃっ」
近くで動いたなにかが怖く、とにかく走って逃げる。
走って走って……唐突に、どこかの家の裏に出た。
「え?」
山の中にこんな大きなお屋敷があるなんて聞いたことがない。
けれどこれで家に帰ると安心した。
人を求めてうろうろする。
裏庭のようなところでなにかしている、巫女のような姿をした女の人を見つけた。
「あの……」
「ひぃっ」
私が声をかけると彼女は袖で顔を隠し、一目散に逃げていった。
「どーしよー」
さらに人を探すか悩む。
こんな大きなお屋敷だ、彼女ひとりだけということはないだろう。
さらに奥に進もうとしたら。
「くせ者はどこだ!?」
ドタバタと数人、神主の普段着のような格好で狐の半面を着けた男がこちらへ駆けてくる。
これで助かったと思ったものの。
「たたき切ってくれる!」
私を取り囲んだうちのひとりがスラリと刀を抜き、大きく振りかぶった。
「ひぃっ。
……う、うわーん」
「……なんだ、騒々しい。
ゆっくり本も読めやしない」
殺される、そう思った瞬間。
その場に似つかわしくないほど、のんびりとした声が響いてきた。
白シャツに黒パンツ姿の若い男は、まるで手品のように空中から狐の半面を出して嵌め、こちらへ歩いてくる。
その男の登場に、目の前の男たちも、それを遠巻きに見ていた人々も一斉に道をあけ、恭しくあたまを下げた。
「人の子など百年ぶりくらいか」
私の前に立った男は膝をつき、その長い人差し指で私の顔を上げさせた。
「ん?
宜生に泣かされたか。
可哀想に」
「朔哉様!」
朔哉と呼ばれた男が片手で制し、怒鳴った男は口を噤んだ。
「どうした?
恐怖で声も出ないか」
楽しそうに目を細め、朔哉と呼ばれた男はくつくつと笑っている。
「……きれい」
「ん?」
面の奥から私を見つめる瞳は、夜空のような群青と、満月のような金だった。
それが、さらさらと揺れる黒髪と相まってとても美しく見えた。
「お兄ちゃん、凄くきれいだね!」
「無礼だぞ!」
思わずぐいっと身を乗り出した私を男たちは取り押さえようとしたが、朔哉にまた制されて仕方なくやめた。
「そうか、きれいか。
……気に入った。
傷の手当てをしてやれ」
「しかしながら!」
朔哉が私のあたまをぽんぽんして立ち上がり、また周囲がざわめいた。
「……私の決めたことになにか異論があるのか」
冷え冷えとした彼の声で周囲の空気が一瞬にして鋭利なものに変わる。
少しでも動いたら、皮膚が切り裂かれてしまいそうなほどに。
「……ありません」
「なら、よかった」
にっこりと朔哉が笑い、ほっとその場が緩んだ。
あきらかに嫌々だとわかる様子で、狐の半面を着けた女性が手足にできていた傷の手当てをしてくれた。
「その……」
「……」
「あの……」
「……」
手当てをしてくれた女性も、私を案内してくれる男性も、一言も話してくれない。
ほかの部屋は和風なのに、通された部屋はお姫様が住んでいそうな洋風の部屋だった。
「腹は空いてないか」
返事をする代わりにお腹がぐーっと鳴った。
朔哉にくすくすと笑われ、恥ずかしくて顔が熱くなってくる。
朔哉が合図をするとすぐに、私の前にいなり寿司とお茶が置かれた。
「食べながらでいい。
名前は?
どこの子だ?」
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