第1章 狐に嫁入り

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「私と結婚すれば人間の世界を捨てなければならない。 もちろん、ご両親とももう二度と会えない。 それにどんなにつらいことがあっても、神の世界では人間の心桜に手を貸すものなど誰もいない。 ……それでも本当にいいんだな」 厳しい朔哉の声に、喉はからからに渇いていた。 空気はぴんと張り詰めたものへと代わり、呼吸さえも憚られる。 これが……神としての朔哉。 「……は、い」 たった二音を口にするのでさえ、酷く神経を使った。 神に嘘はつけない。 ――ついてはいけない。 「……わかった」 ゆっくりと朔哉の顔が近づいてくる。 私のシャツをずらして首もとを露わにさせ、朔哉はそこに――噛みついた。 「……っ」 「契約の印だ。 これで心桜は私から逃げられない」 まるで恐ろしいものを見るように、いや、実際に神としての朔哉は恐ろしかったのだ――顔を見上げる。 視線のあった朔哉は、口もとを綻ばせ、ふっと笑った。 途端に空気はいつものものへ一気に戻る。 「そう怯えなくていい。 私は心桜を守って絶対に幸せにするから」 朔哉の手が頬に触れ、意図がわかって目を閉じた――ものの。 「あ」 私の鼻にぷにっと朔哉の面が当たってしまい、おかしくてふたりで笑いあった。 朔哉の元に嫁ぐのは私の十八の誕生日、三月二十日にしようっていってくれた。 その日が人間の私が神の朔哉に会える、タイムリミットだから。 ぎりぎりまで両親の元にいさせてあげたいという、朔哉の心遣いだ。 「お父さん、お母さん。 ……あのね」 高校を卒業したら神様の元に嫁ぎます、なんて説明してわかってもらえるはずがない。 そんなこと言ったら、受験の現実逃避だと思われるのがオチだ。 「その。 高校卒業したら好きな人と結婚したいんだけど」 「ゆるさんぞ!」 見ていたタブレットをバン!と壊れるんじゃないかという勢いでテーブルに叩きつけ、父が立ちがある。 「結婚なんてまだ早い! そんなの、許せるはずがないだろ!」 顔を真っ赤にして怒っている父とは違い、母と祖母はのんびりとお茶を啜っていた。 「受験がそんなに嫌か? 進学したいと言ったのはお前だろ」 予想通りの答えが返ってくる。 わかっていたけれど、どうしていいのか悩む。 「事情が変わったの。 大学へは行かない。 結婚する」 「ゆるさん、ゆるさんぞ!」 「あの、ね。 その人、春に……遠くに、行っちゃうんだ。 だから私も、着いていきたい」 「なんだそれは! そいつを、ここに連れてこい!!」 父が怪獣バリに吠える。 これってもしかして、娘は嫁にやらんぞって奴なのかな。 「えっと、ね。 事情があってその人、お父さんとお母さんに会わせられないんだ。 でもほんとにいい人で、心配いらないから」 「そんなの、信用できるわけないだろうが! 連れてこい、いますぐここに連れてこい!!」 父の気持ちはわかる。 が、できないものはできないのだ。 あと三ヶ月しかないのにどうしよう……。 「……昭史(あきふみ)。 あきらめんしゃい」 それまで黙っていた祖母が唐突に、ぼそっと呟いた。 「心桜ちゃんにはお狐様の印がついとる」 ぎくり、と背中が揺れる。 おそるおそる、祖母を振り返った。 「おばあ、ちゃん……?」 「心桜ちゃんはお狐様に気に入られたんじゃ。 なら、仕方ない」 じっと祖母が私を見つめる。 それはまるで、なにもかも知っているかのようだった。 「狐だとか非科学的だ! 馬鹿馬鹿しい」 「……失礼いたします」 音もなく突然、宜生さんが父の背後に立っていた。 ただし、いつもの神主姿ではなく、紋付き袴姿で。 狐の半面は相変わらずだったけれど。 「ど、どこから入ってきたぁ!?」 父は動揺しているのか、声が完全に裏返っている。 母も目を思いっきり見開いたまま、固まっていた。 「心桜様との婚姻の許可をいただきたく、主より書状をお持ちいたしました」 「あ、ああ」 差し出された手紙を、父が無意識に受け取る。 「確かに、お渡しいたしました」 父が受け取ったことを確認し、宜生さんはまるで霧の中へでも入っていったみたいに……消えた。 「な、なんだ、いまの」 すとん、と父は腰が抜けたかのようにその場へ座り込んだ。 「好きな人の、お家の人」 父へ新しいお茶を注いでいる母の手も震えている。 あんなもの、目の当たりにしたって信じられるわけがない。 まあ私は、小さいときから見慣れていたからか、自然と受け入れていたけれど。 「だから言っただろ、心桜ちゃんはお狐様に気に入られたんだって」 祖母はひとり、冷静にお茶を飲んでいる。 「そんなの信じられるわけ……」 父はそれっきり、黙ってしまった。 微妙な沈黙が家の中を支配する。 「……手紙」 なにかを思い出したかのように、父が顔を上げた。 手に掴んだままだった手紙を慌てて開く。 「……信じるしかないのか」 読み終わった父はがっくりと項垂れてしまった。 渡された手紙を母も読んでいる。 母が読み終わると今度は私も、読んだ。 そこには二度と両親に会えない遠い世界へ私を連れていってしまう詫びと、絶対に私を幸せにすると約束するから信じてほしい旨が書いてあった。 あとは、自分は神様だとちゃんと。 「心桜は本当にそれでいいのか」 「うん。 親不孝な娘でごめんなさい」 「お前がそれでいいのなら、仕方ない」 父も母も魂が抜けたかのようにお茶を飲んでいる。 本当にごめんなさい。 でも私は、朔哉と一緒にいるって決めたから。 お祖母ちゃんからあとで、首筋にできた朔哉の噛み痕を確認された。 昔もやっぱり、同じような痣ができた子がお稲荷様に攫われていったんだって。 朔哉がそんなことをしていたのかとムッとしたけれど、あとで確認したらほかの神様だった。 婚礼の支度は順調に進んでいく。 たびたび起こる不思議なことに、父は完全に諦めてしまった。 昔からのしきたりだって、私の輿入れは白無垢なのらしい。 神様は人間のように式を挙げたりしないが、私のために神前式形式で特別に式をやろうねって朔哉が言ってくれた。 そして、輿入れの日がやってきた。 「お父さん、お母さん。 いままでお世話になりました。 育ててくれてありがとう」 私が白無垢姿で三つ指をつくと、あたまの上ですんと鼻を啜る音がした。 「……別にお前に、感謝されるようなことはしとらん」 今日は、父は紋付き袴、母と祖母は黒留め袖だ。 朔哉の元へ行くのは私ひとりだが、形式は大事だと準備してくれた。 「でもこれで最後だから。 もうお父さんとお母さんに感謝の言葉すら伝えられなくなる。 だからこれから先の感謝をいま、伝えたいんだ」 「心桜……」 私に縋って母は嗚咽を漏らしていて、申し訳ない気持ちになってくる。 通常の結婚とは違うのだ。 たとえ遠く離れた異国の地へ行ってしまうとしても、生きていればまた会えるチャンスはある。 でも私は本当に、もう二度と両親には会えない。 いや、正確には会おうと思えば会えるらしい。
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