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序章
「そしたらさ、あいつが俺とおんなじこと言い始めてさあ」
浩二が彼女の顔を覗き込みながらそう言うと、彼女はぎこちなく口角を上げて、小さく「へえー」と返した。電車の走行音にかき消されるくらい、小さな声だった。
重い沈黙が、二人を襲う。浩二は彼女から目を逸らし、慌てて次の話題を探した。しかし、自分の意に反して、言葉に詰まって、口を開くことさえできなかった。
電車の揺れが、浩二の焦りを掻き立てる。前々から、まずいなあ、とは思っていた。最近、彼女のためにやること為すこと、全てが空回りしていた。もはや最後に彼女の笑顔を見た時も、思い出せないくらいだ。
彼女は今日もいつものように、デートに誘ってきた。行き先は、初めて二人で外出したときに訪れた、喫茶店だった。しかし、その誘いを受けた瞬間、浩二は、これが二人の最後のデートになるだろうと確信したのだった。むしろ、今までよく別れずに済んだなとさえ、思ってしまった。
電車がゆっくりとスピードを落とし始める。それとほぼ同時に、次の到着駅の名前がアナウンスされた。あの喫茶店まで、あと二駅だ。浩二はドア横の車内広告に目を向けながら、乾いた唇を舐めた。
やがて電車は駅に停車し、扉が開かれた。数人が、無表情で車内に乗り込んでくる。
「結構、混んでるわね」
「ああ」
そんな会話が、頭の上の方から聞こえた。思わず少し目を上に向けると、背の低いおばあさんが、座席に備え付けられた金属棒を掴みながら、目の前に立っていた。
そしてその隣、浩二の彼女の目の前には、怖そうな顔をしたおじいさんが、つり革を握っていた。
浩二は、その老夫婦の足元に視線を落とし、気まずさを堪えようとした。だがすぐに、浩二はあることを思い付いた。彼女に良いところを見せるためにも、自分は今、彼らに席を譲るべきではないか。
電車の扉が音を立てて閉まり、車両はゆっくりと動き出す。電車がスピードを上げるとともに、浩二の迷いは確信に変わっていった。やはりここは、譲るしかない。
浩二は意を決して、老夫婦を見上げた。
「あの、席、譲りましょうか」
浩二は遂に、そう声を出した。
もちろん、こんなことだけで彼女の気を引けるとは、思っていない。自分でも、これが無様なあがきだとは分かっている。分かっているが、このまま何も出来ずにいる自分が、何となく嫌だった。
「あら、いいの?お兄さん」
おばあさんはにっこりと笑って、こちらを見下ろす。浩二は立ち上がると、必死に笑顔を作って頷いた。そして、その顔をそのまま彼女の方に向け、「ほら、俺らは立とう」と声をかけた。彼女は、笑っているのか困っているのか分からないような顔で小さく頷いて、腰を上げた。
しかしそのとき、おじいさんが一つ咳払いをし、それから、浩二の方を見て言った。
「構わん」
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