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「戦前に戻すなんてとんでもない」
吹き散らすように鋭く言い放ったのはナディアだ。
「ワラキア、モルドヴァ、ハンガリア」
振り絞るようなナディアの声を耳にするノンカの面に痛みが走った。
その様を間近に目にするこちらも痛ましくなる。
「悪の枢軸国に加わったトラキアの侵略にどれほど踏みにじられ、苦しめられたか。今もその傷痕に悩まされているか」
身動ぎする代わりに私は拳を握り締めた。
この緋色のビロード張りのソファは庶民の身には柔らかな血の底なし沼にゆっくり体が吸い込まれていくように感じるのだ。
「『薔薇の騎士』と言われたトラキア兵たちが占領地で何をしたか」
ワラキアでもモルドヴァでもハンガリアでもトラキア兵による現地民の虐殺、収奪が起きた。
トラキア兵に強姦されたり騙されて慰安婦にされたりした女性も各地で出た。
今のこの国ではそうした加害の歴史は矮小化され、ともすると偽りの申し立てのようにすら扱われる。
が、当時の資料を少しでも紐解けば、私のような終戦後半世紀以上を経て生まれた人間にも何故この国が近隣から非難され続けてきたか良く分かる。
私は知らず知らず自分の皿の上に盛られたクッキーに目を移した。
薔薇、向日葵、チューリップ……。
これは周辺諸国の国花だと今更ながら気付く。
ほのかに甘い匂いを放つクッキーは一つ一つは綺麗で完全な形に焼き上がっているのに、並ぶといかにも不揃いでバラバラな欠片を寄せ集めたように見えた。
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