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「現行のワラキア政府は国内統一のために反トラキアを利用していますからね。それは王女殿下も良くご存知とは思いますが」
首相はどこか嘲る風な冷たい笑いを亡命の王女に向ける。
「『五族協和』という戦前のトラキアが掲げた理想そのものは誤りではなかったと私は認識しております」
トラキア、ワラキア、モルドヴァ、ハンガリア、そしてロマ。
それぞれの民族衣装を着た少女たちが手を繋いで薔薇の花園で舞い踊る。
そんな戦前のプロパガンダポスターが脳裏を過る。
「五族協和」とは言いながら、中央のトラキア人の少女が女王然と一番豪奢な衣装を纏っているのだ。
ふと見やると、上質なベージュのワンピースを着たノンカはまるで覚悟を決めて刑場に引かれていく人のように青ざめて唇を噛み締めていた。
「五族協和なら何故、トランシルヴァニアのトラキア兵たちはワラキア人を『丸太』などと呼んで人体実験をしたんですか?」
まるで撃たれた兵士のようにナディアは黒い断髪の頭を伏せる。
「おぞましい虐殺を働いた連中は戦後も罰せられるどころか大学教授や製薬会社の経営者になってこの国の医療を主導する立場になった」
「戦後、我が国の医療は世界をリードする程になりました」
独裁者は誇らしげな笑顔で述べた。
流浪の王女の怒声が薔薇の香りに満ちた部屋に響き渡った。
「殺されたワラキア人たちはトラキアが躍進するための教材だったというのか!」
遮断されたガラス戸の向こうでは風が凪いだ代わりに陽がちょうど陰ったらしく、揺れを止めたアーモンドの裸木の枝が黒々とした影絵になっている。
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