神秘なる山麓を超えて 2

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「あるいは卓越したピアノ奏者やバイオリン奏者は、実際に楽器を手にすることなく、脳の中で自由に演奏することができる。なぜならば、奏者の脳内には、どこをどう押さえれば、どういう音が出るかといった情報が既に完備されているからだ。そう、彼らにとって楽器は完全に肉体の一部と化している。たとえ、物理的な楽器がそこになくとも何の問題もないのだ。聴力を失った作曲家が苦も無く、曲を作り、曲をアレンジすることができるのも、その理由による。音とはまさに生けるシンボルなのだよ。彼らは物理的な肉体を動かして実際に楽器を演奏しているわけではない。脳があれば、それで事足りるのだ。その行為は果たして単なる想像の産物だろうか?  能動的想像とは、意図の推進力を利用して、通常の想像をリアリティへと昇華させる方法だ。そして君はそのようにして、自分自身の第二の身体を認知し、観察し、脳内に刻み込み、実際にその体を、おとぎの国で駆使するのだ。私の云っていることが分かるかい?」  蛍は弱弱しく頷いた。理論的には、まだ十分理解しているわけではない。しかし、感覚的、体験的には十分に理解できる内容だった。 「次に述べるのは私が推奨する方法だ。まず君は、自分とまったく同じ容姿を持った、もう一人の自分を詳細に視覚化することから始める。鏡の前で君自身をつぶさに観察し、脳裏に焼き付けるんだ。人間というものは、自分の顔形をよく知っているようで、案外、その細部までを完全に想起することはできないものなんだ。いずれにしても君は、完全に想像の力だけをもって、君の前にいる君自身を明確に視覚化できなければならない。君と、君の視覚像の距離は、おおよそ1メートル程度に設定すればいいだろう」
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