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辺りを見回すと、砂漠だった。
遮る物は何も無い、一面の砂漠である。
申し訳程度に起伏した砂丘の彼方には、横一文字に地平線が見える。
そして遥か彼方で横一文字に区切られた上方。空は、雲の影さえ見えないほどに、果てしなく青く続いている。
わたしは、確か樹海を彷徨っていたはずだ。
確かに、樹海を彷徨っていたはずだ。
鼻腔には、まだあの湿潤な、陰鬱な、空気の青臭さが残っている。
にも関わらず、何だ? この光景は?
落ち着こうと深呼吸をすると、鼻腔に残っていた青臭い気配も、乾いた空気に掻き消された。
足元を苔か何かに掬われて、すっ転びそうになったところまでは間違い無いはずだ。そこですっ転んで、頭でも打ったのか?
いや、そんな記憶は無い。頭を打ったような痛みも無ければ、昏睡していたような記憶の飛びも無い。
現在、砂漠に立ち尽くしているわたしの記憶は、樹海を彷徨っていたわたしの記憶と、(少なくともわたしの認識できている範囲内において)完全な連続性を保っている。周囲が、樹海から砂漠になったという齟齬を除いては。
あの瞬間。足を滑らせてすっ転びそうになり、体勢の維持に全意識が集中した瞬間に、周囲の世界だけがそっくりそのまま入れ変わってしまった。
あるいは、わたしだけがそっくりそのまま砂漠に飛ばされて来てしまった。
そんな馬鹿なことがあるものか!
奇術では、一瞬の意識の空白に付け込んで、仕掛けを巡らせるとはよく聞くが、これほど大掛かりな仕掛けが、一体どうしてできようものか。仮に奇術だったとしても、金品はおろか目ぼしいものも持たないわたしを誑かして、一体何をしようというのか。
とても信じられるようなことではないが、民話や伝承に聞く、狐や狸に化かされているという状態なのだろうか。
「おーい」
何となく、呼びかけてみた。
視界にはささやかな砂の流れのほかに、動くものは何も無い。
そもそも、狐狸の類や、突拍子も無くこんな奇術を弄して、他人を弄ぶような手合に、凡百な呼びかけで琴線に触れられるとも思えない。
「おおーい」
それでも、呼び続けてみる。継続は力なりと、誰だったかも云っていた。ありきたり過ぎて、誰が云っていたのかもよく覚えていないが。
「おおおーい! 誰かー!」
より声量を上げて、人間を対象に呼びかけてみる。姿も気配も全く感じられないが。
「おーい、出して下さいよ! ねえ!」
往年のアニメキャラクターのセリフを丸パクリしてみれば、反応してくれる誰かがいるかもしれないと期待したが、全くの空振りに終わったようだ。ただ、虚しいだけだった。
「啞盲聾ぉぉぉッ!」
気が触れたわけではない。今時こんな奇天烈大掛かりで悪趣味なことをして、視聴率を稼げると思っているような手合は居るまいが、どこぞの悪趣味なテレビ局や映像制作会社が一枚噛んでいるのだとしたら、編集作業の手間を増やしてやろうと思ったのだ。案の定、なしの礫だった。
「ああああああああああッ!! うんこちんちん!! うんこちんちぃぃぃんッ!!」
繰り返すが、気が触れたわけではない。相手が狐狸畜生の類なら、威嚇的に大声を出せば怯んだりしないかと考えたのだ。また、心霊現象はシモネタで撃退できるという俗説も聞いたことがある。ならば、そこに民俗学的な用語で云われるところの「ケガレ」に関する言葉も織り交ぜれば、より効果があるのではないかと思ったのだ。全くの無駄だったようだが。
「ちんちーん、ちんちーん……」
こだまが返ってきたのではない。わたし自身の中で、叫びが虚しく反響し、口から溢れ出ているだけの音だ。そもそも、声を跳ね返すような壮大峻厳な構造物も、周囲には全く見当たらない。壮大峻厳どころか、構造物自体が全く見当たらない。
延々、果ても知れない、砂漠が続いているだけなのだ。
ここに至り、ようやくわたしは歩いてみようと考えた。散々呼びかけたり、奇声を上げたりしていたものの、砂漠に立ち尽くしていると気付いた時から、精々半歩ほどしか動いていないことに思い至ったのだ。
周囲5メートル程度が、非常に良く出来た描き割りに囲まれているのかもしれない。まったく反響が無かったのも、音を吸収するそういう素材が用いられているのかもしれない。
もしそうだったなら、描き割りの向こうにいるであろう人々に、どんな顔を合わせれば良いものか。とりあえず憤ってみるか? あまりにも不埒で品の無い叫びを上げたことに、恥じてみせるか?
そんな心配は、残念ながら杞憂に終わった。
とりあえず、元向いていた方向に向かって、ザクザクザクザクと歩を進めてみたが、壁のようなものに打ち当たる気配は毫ほども無かった。振り返れば、足跡がダラダラダラダラと付いて来ている。
どうやら、ちょっとやそっと動いた程度では抜け出せないらしい。
風も無いので、足跡は消えずに残っている。
血の気が引いた。
総毛が立った。
わたしは、気付いた。
足跡には、影が無いのだ。
そして、見下ろした自分にも、影が無い。
太陽が天頂にある時、影は極端に短くなるが、そういったものではない。
この砂漠には、影が全く無いのだ。
見上げれば、雲一つ無いどころの話ではない。太陽すらも見当たらない。
これはいよいよオカシイ。
こんなに煌々と明るいのに、全く光源が無いとはどういうことか?
果たして、ここは地球なのか?
そもそも、実在する座標なのか?
実はあの時、樹海で苔に足を取られた時、わたしは盛大にすっ転んで頭を打ち、今まさに命を落とそうとしているのではないか? ここは、命の火が消える間際に見出した、幻影の世界なのではないか?
わたしは、砂漠に膝を突いた。
そして、砂を鷲掴みにした。砂塵を掴んだ感触はある。しかし、全く温度を感じない。冷たくも、熱くもない。云うなれば、目に見えているままで、予想外の刺激が全く無いのだ。
ここは、臨死体験の世界だとでもいうのか?
此岸と彼岸の狭間には、三途なりステュクスなり、川が流れているものではないのか?
あるいは、黄泉比良坂のように、坂道や断崖があるものではないのか?
ここは見渡す限り、遥かな砂丘ばかり。
暑くも寒くもない、何の刺激も無い。
わたしは、元居た場所、足跡の始まった場所へ駆け戻った。
全身の毛穴から脂汗が噴き出して来るのがわかる。
全く気温の変化が無いのに、体が芯から冷えてくる。震えが止まらない。歯の根が合わない。
戻らなければ。
戻るにしてもどうやって?
そもそも、死ぬつもりで樹海へ来たのではなかったか。
だとしても、これは話が違う。想定が違う。
空を仰いだ。
青い青い空に、圧し潰されるように感じた。
周囲を見渡せば、遮るものは何も無い。
わたしは、立錐の余地も無い「何も無い」ことに取り囲まれ、「何も無い」ことに圧し潰されようとしている。
わたしは、「何も無い」ことに圧倒され、膝を突いた。
お笑い草ではないか。樹海くんだりまで来たのも消えてしまいたかったからなのに、いざ自分が消えてしまったかもしれないとなると、色を失って恐慌状態になるとは。
わたしは、地面に手を突いた。
「ああ」
いや、「何も無い」わけではない。
「あああ」
地面がまだ、あるではないか。
「ああああ」
自分の立っている地面がある。
「あああああ」
わたしは、砂を掻き分けた。
「ああああああ」
掘り進めても、砂は一向に湿り気を帯びることはない。
「ああああああ、ああああああ」
明らかに不自然だ。現実的にはありえない。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ」
それでも、この不自然な地面が、自分が「ある」ことの最後の寄る辺なのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
わたしは、「何も無い」ことから逃れるために、一所懸命に地面を掘り続けた。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
気が触れたわけではない。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
わたしは、わたしの存在を元居た世界に刻んでおきたかったのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
この世から消えるつもりで樹海に分け入ったわたしは、ここに来て、消えることに恐れ、平伏し、「何も無い」ことになりたくないと、希った。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
そして、わたしの存在を誰かに認めてもらうために、声を上げ続けた。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
理屈など不要だ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
今はとにかく、気付いてもらわなければ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
今はこの砂と声だけが、自分が「ある」ということの寄る辺なのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
この砂と声だけが、自分が「ある」ということの寄る辺なのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
この砂と声だけが、自分が「ある」ということの寄る辺なのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
この砂と声だけが、自分が「ある」ということの寄る辺なのだ。
「ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ、ああああああ」
この砂と声だけが、自分が「ある」ということの寄る辺なのだ。
(不知了)
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