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闇樹編――世紀の大告白の顛末は――(3)
かつてこの大陸の南東には、旧世界が殺戮兵器で滅びた後に、神々の降り立った島があったという。あまねく神々はそれぞれ世界に散り、海しか無かった場所に陸地を創り、人間を生み出して、その大陸の唯一神となった。
それがこの世界の成り立ちの通説である。
故に陸地の数だけ神が存在し、神の数より遙かに多い生き物が存在し、この大陸の定義とはかなり異なる容姿を持った『人類』も存在すると言われている。神の山脈ロワの向こうへさえ越えられない程度の文明しか持たない今の人間達に、その真偽を確かめる事はかなわないが。
だが、少なくとも今、ライルと凪音という二人の人間は、神話時代の実在をその目で確かめている。風を切って海を渡った先には、本当に、大陸より遙かに小さな島が存在していたのだから。
人の手が全く入っていない緑に覆われた陸地を眼下に、しばらく旋回する。やがて、竜並の視力を得たライルの目は、巧妙に木々に隠された洞窟がぽっかり口を開けているのを見つけ、一際強く羽ばたくと、洞窟へ向かって降りて行った。
目印も気配も全く無い。だが、ライルの中に息づく『真白』の片鱗が、間違い無く「ここだ」と告げている。地面に降り立ち、凪音から腕を解いて立たせると、彼女も離れて剣の柄に手をやり、油断無く洞窟の中をうかがった。
洞窟の中はヒカリゴケがこれでもかとばかりに生え、輝いている。明かりは要らなそうだ。ライルも大剣を鞘から解き放ち、凪音に先んじて洞窟の中の細い道へと踏み出した。
ぴちゃん、ぴちゃんとどこかで水滴が落ちている音だけがいやに響く中、ふたつの足音が重なる。慎重に歩を進めてゆくと、ライルの中の「ここだ」という感覚はより一層強くなり、それを証明するかのように、低い唸り声が洞窟の奥から聴こえて来た。
やがて細い道の終わりが見えて来る。その先にはかなり広い空間があるようだ。道の左右にライルと凪音は張り付き、奥から聴こえる唸り声を耳にしながらそれぞれの得物を握り直して、顔を見合わせうなずき合い、同時に奥へと飛び込んだ。
途端。
黒い樹が視界いっぱいに広がった。
(違う!)
即座に思考を修正し、凪音の腕を引くと背の翼をはためかせて上空へ飛び上がる。直後、最前まで二人がいた場所を、炭化した丸太のような指を持つ手が薙いでいった。
すかさず距離を取り、地面に足をつけると、体勢を整えて改めてまじまじと敵を見すえる。
『鬱陶しい人間。ここまで僕の邪魔をしに来るとはね』
落ちくぼんだ眼窩の奥にある金の光が、ぎょろりとこちらを向く。『闇樹』は苛立たしげに骨格だけの尻尾で地面を叩きえぐっていた。
改めてこの場の全体像を把握する。『闇樹』でいっぱいいっぱいになっていると思ったのは初見の錯覚で、それなりの広さがある。神々が集っていたと言われれば納得しそうな広さと高さを持つ空間だった。その主であるかのように『闇樹』は居座り、そして、骨格だけの身体の奥、肋骨の向こうに浮かぶ半透明の球体があって、その中で赤ん坊のように丸まっている少女の姿が見えた。
「――リル!」
名を呼んでも彼女が反応する事は無い。目はかたく閉じられたままで、目覚める気配は無い。
『無駄だよ』
『闇樹』が声帯も無い喉の奥で嗤う。
『「真白」はその身体も力も全て僕のものだ。もう、誰の声も届かない』
そうして、またも黒い手が振り下ろされる。避ける猶予は無い。よしんば避けても、隣の凪音を助ける暇はもっと無い。ライルは迷わず大剣を頭上に掲げると、があん! と大きな音を立てて『闇樹』の手を受け止めた。
「ナギネ、下がってろ!」じりじりと圧されながら、視線を向ける余裕もないまま、声を張り上げる。「お前を守りながら戦えない!」
凪音はお姫様ではあったが、己の技量でかなわない敵と相対した時に駄々をこねない程度には戦士であった。うなずく気配がしたかと思うと、足音が遠ざかってゆく。この空間に入る前の道に戻ったようだ。
これで背後を気にせず戦える。安堵した途端、横から衝撃を受けてライルの身体はあっけなく宙を舞った。『闇樹』の尻尾が直撃したのだ。
これが『溶炎』と戦った頃の、ただの狩竜士のライルならば、骨という骨が砕けて即死だっただろう。だが今、ライルはリルから力をもらった、正真正銘『真白』の狩竜奴だ。血を吐き一瞬意識が飛びかけたが、必死に己を現実に呼び戻して体勢を立て直し、地面を踏み締めて立ち上がる。それが『闇樹』の気に障ったらしい。
『お前、生意気だ』
更なる打撃がライルを襲った。今度は右足。転がった所にまた手ではね上げられ、落下した所へ再度尻尾の一撃。壁に叩きつけられ、顔を腫らしたライルはずるずると地面に崩れ落ちた。大剣も手からすっぽ抜けてどこかへ行ってしまっている。
たまらず凪音が駆け寄って来るかもしれない、という懸念はあった。だが、のろのろと入口に視線を向ければ、彼女は必死に声を呑み込み、戦いを見守っている。ライルの勝利を諦めていない、期待を込めた黒の瞳で。
強い女だ、と思った。戦いの腕ではない。精神の話だ。そして、そんな女は嫌いじゃない、という考えに、思わず口元をゆるめた。
『何を笑ってるんだ、腹立たしい』
またも『闇樹』の張り手が飛んで来て、ごろごろと地面を転がる。土を噛み、拳を握り締めて、激痛に耐える。だがこの程度、地獄の筋肉痛に比べたら、蜂に刺された程度の痛みだ。
(いや、蜂じゃ結構痛いか)
呑気な思考をしながら、それでもライルは立ち上がる。背中の白い翼はすっかり土で汚れ、鼻血も出ていてさんざんな姿だが、それでも彼はまだ、『闇樹』に勝つ算段を頭の中で練っていた。
『闇樹』は『真白』の身体も力も自分のものだと言い張った。ならば、せめて『真白』の力を引きはがす事ができれば、まだ勝ち目はあるのではないだろうか。それには、『闇樹』の中に囚われているリルを目覚めさせなければならない。
どうすれば良い。振り回されて来た『闇樹』の尻尾を地面を蹴って飛び立ちかわしながら、必死に普段使わない脳味噌をフル回転させる。
その時、いつかリルが言った台詞が、ふいっと脳内を横切った。
『呪われたお姫様には、王子の口づけ、じゃ』
今リルは呪われている訳ではないが、たしか眠れる姫君を王子の口づけで目覚めさせるおとぎ話もあったはずだ。
すうっと息を吸い込み、ぎんと『闇樹』を睨みつける。正確には、その肋骨の向こうの、リルを。
そして。
「リルーーーーーーッ!!」
大声をあげながら羽ばたいて、ライルはリルへとまっしぐらに突っ込んで行く。
「お前が好きだああああっ! だから目え覚ましやがれこの性悪始祖竜ーーーーー!!」
『闇樹』の手を、空中で方向転換してかいくぐり、リルに手を伸ばす。半透明の球体に触れた途端、それを待っていたかのように、球体はぱあんと風船のような音を立てて割れる。
ゆっくりと、琥珀色の瞳がまぶたの下から現れる。ライルは肋骨の隙間から手を伸ばすと、竜の少女を抱き寄せ。
前代未聞、肋骨越しの口づけをした。
ぼんやりしていたリルの瞳が、はっと光を取り戻す。その目が真ん丸く開かれる。
「狩竜奴の底力、なめんなよ」
唇を離してライルがにやりと笑いかけると、リルはぱくぱくと口を開閉させた後に、
「……こっの……馬狩竜奴ーーーーーっ!!」
ぱきいん、と、ばきいいっ、という音が同時に響く。リルの平手は『闇樹』の肋骨を砕くだけでは飽き足らず、ライルを十メートル単位で張り飛ばしていた。だが、ブッ飛ばされながらもライルは満足げに笑っていた。目的は果たしたのだから。
『馬鹿な……!?』
自分のものにしたはずの『真白』が、自分の意志に反して目覚めた事に、『闇樹』は激しく動揺したようだ。信じられない、という声色が零れ落ちる。
今しか機会は無い。ライルは空中で体勢を整えると、『闇樹』の頭上へ舞い上がる。
『闇樹』がライルを振り仰ぐより、ライルが右手を振り下ろす方が速かった。まるで薄板のように『闇樹』の眉間を叩き割る。その手に触れた丸い感触を確認し、勢い良く引きずり出す。
『禍土』の力たる黄色の石と共に出て来たのは、黒い、静かな輝きを放つ石。『闇樹』が持つ『真白』の力の欠片に間違い無かった。
『なん、で』
竜であれる力を失った『闇樹』の身体に、ぴし、と音を立ててひびが入ったかと思うと、たちまち崩壊を始める。
『「真白」、僕はただ、君に傍にいて欲しかった、だけ、なのに……』
枯れた樹が朽ちてゆくかのように、『闇樹』が壊れてゆく。崩れたそばから黒い粒子になって消えてゆく。
「……許せ」
その様子を見上げながら、リルがぽつりと呟いた。
「わらわは神の竜。誰か一人のものにはなれぬのだよ。それをわかってもらえなかった時点で、お前とは一緒にいられなかった」
その後に小さく、男のものらしき人名を舌に乗せる。それが恐らく、『闇樹』の本名なのだろう。今はもう知る必要は無い、と思うライルの眼前で、『闇樹』は消滅した。
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