溶炎編――彼は彼女と出会ってしまった――(3)

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溶炎編――彼は彼女と出会ってしまった――(3)

 猫を、飼っていた。  いや、「飼っていた」と言うのは語弊があるのかもしれない。旅から旅への空の下、とある町で気まぐれに煮干しをやったら、ひょこひょこと後をついて来たのである。  その鼻先には、鼻くそのような黒ぶちがでかっとあり、首から下は鯖柄で、手足の先だけが靴下のように白かった。なので、『鼻くそくつした』とそのまんまで呼んだ。  鼻くそくつしたは頭が良く、竜を狩る時にはどこかの物陰にするりと隠れてやり過ごし、竜が倒れると、「えっボクは最初からここにいましたが?」とばかりにひょっこり現れる。そして竜を退治した礼の晩餐が開かれた時にはちゃっかり一緒にいて、高級魚の干物を嬉しそうにがっついていた。  だからと言って、鼻くそくつしたはこちらに一切媚びないひねくれ者という訳でもなかった。歩き疲れるとにゃあにゃあ鳴いて抱っこをせがみ、腕の中に収めてやると、満足そうにゴロニャンと喉を鳴らした。夜は暑さ寒さを問わずにこちらの布団の中に潜り込み、背中にぴったり寄り添って、すうすう寝息を立てていた。一人旅に慣れた身には、その熱がいやに温かく、また懐かしくて、知らず知らずの内に安心して熟睡したものだ。  だが、鼻くそくつしたはある日突然いなくなった。いつも通り竜退治を終えて、ひょこっと顔を出すのを待っていたが、いつまで待っても鼻くそくつしたは戻って来なかった。日が暮れるまで待ち、町の宿に帰ってからも、猫の鳴き声がする度に部屋の窓を開けて確かめたが、あの鼻くそ顔ではなかった。 「猫は寿命を悟ると自分から姿を消すと言いますから」  宿の主人はそう苦笑いをして諭してくれたが、恐らく何か他の獣に獲られたのだろうと思った。この大陸には、竜以外にも気をつけねばならない危険な獣がごまんといる。小さな猫一匹など容易く食らってしまうだろう猛獣は、そこら中にいるのだった。  小さな温もりが無くなったその日の夜は、まだ夏の終わりだというのに、何故かやたら寒く感じたものだった。  その、忘れかけていた生き物の温かみが、今、ライルの背中に張り付いている。鼻くそくつしたにしては、背中に引っつく範囲が広くて、呼吸音も大きく、高い。  不審に思ってごろんと寝返りを打ち、呼吸の主の顔を確かめる。薄桃色の髪がほどかれてシーツの上に広がっている。黙っていれば愛らしい顔は、まぶたが閉じられて琥珀の瞳を見せず、代わりに無垢な寝顔をさらしている。  ぱちぱちと。ライルは二、三度どころか五度くらい瞬きをした後。 「……うっひょほっへええええええい!?」  と、宿中に響き渡りそうな妙ちきりんな悲鳴を轟かせた。 「う……ん?」  さすがに大音声すぎたか、幼女が身じろぎしてのろのろと覚醒し、目をこすりながら起き上がる。 「なんじゃ、朝っぱらから騒々しい」 「なんじゃじゃないわ!」  ライルは即行で突っ込みを入れると、毛布をはねのけてベッドから飛び降り、壁際まで後ずさった。 「なななんでお前が俺のベッドにいるんだよ!?」  昨夜酒場で出会った少女は、琥珀色の瞳を不思議そうにまたたかせると、「ああ」と今更思い出したように、ぽん、と両手を打ち合わせた。 「わらわは宿を取っていなかったからの。貴様と同じ部屋に泊まらせてくれと宿の主人に頼んだら、快諾してくれたわ」  嘘だ。すぐさまライルの脳内でその一言が浮かんだ。宿の主人は昨夜のどんちゃん騒ぎに参加していた。当然、この少女がライルをのす様もばっちり目にしていただろう。そんな娘に頼み事をされて、一般人が断りきれるはずが無い。何をされるかわかったものではないのだから。 「だだだがな!」  ゆっくりと壁から身を離し、じりじり横移動しながら、ライルは幼女を睨みつける。 「いくら俺がおっさんでお前が幼女でも、男女が同じ部屋で寝るのはまずいだろうが! ていうか、俺が変な誤解を受ける!」  幼女はきょとんと目をみはり、それから、ころころと笑いながら軽い足音を立ててベッドから飛び降りた。 「なんじゃ貴様、少女趣味(ロリコン)とでも噂を立てられるのが嫌なのか? わらわは気にせぬぞ」 「お前が気にしなくても俺が嫌だそんな不名誉な称号!」 「器の小さい男じゃのう」  ライルの必死の抗議にも、幼女はこたえた様子を全くみせない。まるでマイペースな鼻くそくつしたが帰って来たかのようで、ライルは面映ゆさに顔をしかめる。いや、目の前の幼女は鼻くそくつしたのような愛嬌も無いが。  ライルがぐるぐる考えている内に、彼女はベッドの向こう側で、あっと言う間に寝間着から昨夜のふりふりワンピースへと着替え終える。 「ほれほれ、貴様も早く着替えぬか。朝食をおごれ」 「何で俺が」  そんな事をしなくちゃならない。その言葉は喉まで出かかって止まった。幼女の顔から愛らしさがすっと消え、まるで獰猛な肉食獣であるかのような笑みが浮かぶと、「ほう?」と、低い声がその小さな唇から洩れたからである。 「貴様は、昨夜も食いっぱぐれてぐうぐう腹を空かせているいたいけな少女が目の前におると言うに、飯をおごる気概も無いほど、薄情な男であるのか」  ふうん、と言いながら首を振って、幼女は両腕を広げてくるくると回った。 「良いのだぞ、良いのだぞ別に。一流と謳われた狩竜士は、食事に窮している娘を見捨てるような人でなし、という噂があっと言う間に広がろうと、わらわが困る訳ではなしにな」  その言葉に、ライルは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。この狭い村中に噂の波が広がるのは、文字通り瞬く間だろう。村でとどまれば良いが、この少女が行く先々でライルの悪評をばらまいて回れば、狩竜士の信用はガタ落ちだ。  こうなると、ライルは縮れ毛を右手でぐしゃぐしゃとかき回して、観念して溜息をこぼすしか無い。 「わかったわかった。金だけは出してやるから、好きなだけ食え」  途端、少女の顔がぱっと明るく輝いた。その様が、鼻くそくつしたが極上のキャットフードを目の当たりにした時の反応にそっくりで、またもむずがゆくなる。  性格など可愛げもへったくれも無いのに、あの猫を思い出すのは何故だろう。自分の心に戸惑いながら、ライルは寝間着からいつもの慣れ親しんだ服へと着替える。  そして少女を呼ぼうとして、とある事実に気がついた。 「お前」 「お前とはなんじゃい」  振り返ると、琥珀の瞳が不機嫌に見返してくる。腰に手を当て偉そうに胸を張る少女に向けて、ライルは脳裏に浮かんだ疑問をぶつけた。 「名前聞いてないぞ」  少女の目が、驚きに見開かれた。何をいきなり、というよりは、そんな事を考えてもいなかった、というような反応なので、ライルは首をひねる。 「名前。そうか、人間は呼称が無いと不便だったか」  少女は顎に手をやり、よくわからない事をぶつぶつ呟いていたが。 「貴様がライルだから……ライル……リル……」  ある瞬間に、名案を閃いたとばかりに満面の笑みで、ぽん、と右の拳で左の掌を叩いてライルの方を向いた。 「リルと呼ぶがええ」  何だかすごく適当な経過で名乗ったような気がするが、ライルは気にしない事に決めた。余計な詮索をすれば、昨夜のように正体不明の馬鹿力でぶっ飛ばされて終わりのような気がしたからだ。  問い詰める事を諦め、代わりに荷物と武器を背負って、少女――リルを振り返る。 「わかった。じゃあ飯を食いに行くぞ、リル」  呼ばれた少女は、ぱちぱちと瞬きをし、 「……悪くはないの」  と満ち足りた笑顔を浮かべながら、とことことライルの後をついて来る。やはりその様子が、鼻くそくつしたを思い起こさせた。 「ふう、食った食った。やはり美味い飯を食べるのは、健康に良いの」  宿を出てから小一時間。満足げに腹をさすってリルは食堂の扉を開け、燦々と太陽光降り注ぐ空の下へと出て来た。その後ろから、げっそりとした様子で財布の中身をあらためるライルが続く。 「お前、化けもんか?」  リルの食べっぷりは、思わずそうこぼさずにはいられないほどのものだった。かりかりのガーリックトースト、とうもろこしのポタージュ、水菜と海老の紫蘇味サラダ、煮豚のデミグラスソースがけ、デザートにはフルーツヨーグルトとホールのチーズタルトレット、とどめの紅茶を三杯と、一体その小さな身体のどこにそれだけ入るのかという、すさまじい食べっぷりに、ライルの持ち金は痛手を受けた。昨日の竜退治で懐は潤っているので、致命的なものではないが、これが毎食続いたら、一週間もすれば財布の底が見えるだろう。 「化けもんとは何じゃ。いたいけな少女をつかまえてからに」  リルはライルを振り返り、ぷうと頬を膨らませるが、朝からディナー並の量を平らげる小柄な少女が普通の娘に見えなくても、誰も異論は唱えまい、とライルは密かに思った。しかしそれを口に出せば、今度こそリルにフッ飛ばされそうな気がするので、文句をぐっと呑み込む。 「では、腹もふくれた所で、さっさと行くかの」  リルが両手を打ち合わせ、天気の話でもするかのように呑気に言い放ったので、一瞬、何の事かわかりかねてライルはぽかんと口を開けて呆けてしまった。しかし、琥珀の瞳がこちらを向いて、「貴様の脳みそはおがくずでも詰まっとるんか」とあきれた様子でぼやいたので、昨夜のやりとりを回顧し、すぐさま思い至る。記憶と判断が鈍るのは、狩竜士にとって致命的だ。  リルは『溶炎』を倒しに行く狩竜士を探していた。そしてその相方として、評判の良いライルを求めていたのだ。  尊大な彼女の態度に振り回され、既に辟易していたので、付き合ってやる義理も無い。だが、こんな小さな娘が『溶炎』に向き合ったら、炎一撃でウェルダンか、大口開けて呑み込まれ胃袋に直行か、どちらかお好みのコースをお選びくださいませ、と、いずこからともなく案内嬢の声が聞こえて来そうである。不可抗力で行き会った縁とは言え、みすみす幼い娘を竜の餌食にするほど、ライルは薄情でも冷酷でもない。  エントコ山の近くまで連れて行けば、リルも自分の言っている事がどれだけ無謀な話か思い知るか、狂言に気が済んで、引き返すと言い出すだろう。とりあえず満足するまで付き合ってやろう、という気持ちがライルの胸中に生まれていたのだった。 「ほれ、さっさとついて来ぬか。男ならきちんとか弱い女子を守るのだぞ」  リルが足を止めくるりと振り返り、腰の後ろで手を組んで、にっこりと笑ってみせる。太陽の光が、ピクニックに行くかのごとく楽しそうな彼女の表情を一際輝かせて、本当にこれから命をかけた竜退治に駆り出されるのだろうか、悪い冗談なのではないか、という錯覚を、ライルに抱かせるのであった。
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