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溶炎編――彼は彼女と出会ってしまった――(4)
エントコ山は火の山だ。昔は良質の温泉が涌く場所として「エントコええとこ一度はおいで」などと観光地化していたが、神聖な火山に商売っ気を持ち込んだ為にばちが当たったのか。『溶炎』が棲みつき片っ端から温泉宿を燃やして回った為、今では人の近づけない危険地帯になっている。
ほとんどの人々はエントコを放棄して他所へ去ったが、数少ない、今もこの辺りを訪れる旅人の為に、宿場町がぽつん、ぽつんと点在している。そんな宿場町のひとつで、『溶炎』との戦いを前に、ライルは宿を取って一息つく事にした。
「どうも」
頬のこけた愛想の無い主人は、ぎょろりとした目でこちらを見ながら、部屋の鍵を渡してくる。先日はいきなりリルに部屋へ入られていて、びびりまくってしまったが、実力はどうあれ、彼女のような見た目か弱そうな少女を一人きりにするのは、流石に気が引ける。父娘だと申告すれば、怪しまれる事無く同室で受け付けてもらえた。
この宿にも露天風呂があるという。折角のエントコの麓だ、温泉を心ゆくまで堪能したい。おっさんと呼ばれても一寸も否定できない年齢に見合わずうきうき湧き立つ心で、ライルは浴場へとへと向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、筋骨隆々、古傷だらけの裸をさらす。これは狩竜士としてのライルの矜持だ。満足気に鼻を鳴らし、腰にタオルを巻いて、風呂場への引き戸をがらりと開ければ、もうもうと心地良い湯気が漂っていた。
身の汚れを落として、岩で組まれた湯船に浸かろうとした時、ライルはそこで初めて、先客の存在に気付いた。
湯気でよく見えないが、その小柄さから、どうやら女性のようだ。
(おいおいおいおい、やばいぞそれは)
年甲斐もなく狼狽えてしまう。まさか、女性の入浴時間と間違えてしまったのだろうか。凄腕狩竜士ライルともあろうものがそんな失態を犯したら、評価が英雄から変態に急降下だ。
ところが。
「安心せえ。ここの風呂は混浴じゃて」
聞き覚えのある声が耳に届いて、それを待っていたかのように、湯気が晴れてゆく。
「まあそもそも、父娘として部屋を取っておるんじゃ。共に風呂に入るくらい、どうという事はあるまいて」
頭のてっぺんでまとめて留めた、薄桃色の髪。愉快そうに細められた瞳は琥珀色。
ライルは彼女を指差しながら、ぱくぱくと口を開閉し。
「キャアアアアアアアアア!?」
と、雑巾を引き裂くような黄色い、もとい茶色そうな悲鳴を、風呂場に響き渡らせた。
「なっ、なっ、なっ、な……!」
「なーにを今更恥ずかしがっておる。布団を共にした仲だというに」
言葉が続かないライルを後目に、リルはのほほんと笑うと、両手でゆったりと湯をすくい、ぱしゃりと顔を濡らす。
「ああ、いい湯じゃ。やはりエントコの温泉は最高だの」
「呑気にしてる場合か!」
「いちいちうるさい男じゃの。静かに浸かって温まるのが、温泉への礼儀というものだろうて」
こちらの動揺などどこ吹く風、少女は顎まで湯に沈み込み、うっとりと目をつむった後、しかし、その目を開けて、琥珀色の瞳をぎろりと光らせた。
「じゃが、この町の連中は、そんなしきたりも忘れたようじゃの」
言われて、はっと周囲の気配を探る。熟練した狩竜士の勘は、周囲の茂みに潜む悪意を鋭敏に感じ取った。その数、五。
(なめくさってやがるな)
ライルはごく自然な動作で、傍にあった洗面桶を手に取ると、不意に大きく振りかぶって、茂みの一つに向かって力一杯投げつける。
直後、コカーン、と辺りに響く打撃音と「ぎゃっ」という悲鳴が聞こえて、誰かが茂みの中に倒れ込む反応を確認した。
先手を取るつもりが逆に先制攻撃を仕掛けられて、焦ったのだろう。木製の棍棒を手にした男が四人、そこかしこの茂みから飛び出してきた。
成程。浴場は無防備になる。そこを狙って襲いかかり、男は源泉に沈めるなり、女は売り払うなりして、益を得てきたのだろう。宿に着いた時、旅人が入ってきた跡はあるのに、出て行った感じがしなかったのは、そのせいか。『溶炎』の天罰を食らってなお、欲にしがみつくなど、人間とはつくづく業の深い生き物だ。
だが、相手が悪かった。ライルは人々の間で名高い狩竜士。それを知らずに喧嘩をふっかけた、それが奴らの不運だ。
向かってくる一人目の棍棒を、足軸をずらすだけでひょいとかわし、その足で床を蹴って大きく踏み込み、固い拳を繰り出す。重い一撃は相手の腹にめり込み、「ぐへえ」と変な声をあげて、男は白目をむきながらひっくり返った。
その手から零れ落ちた棍棒をつかみ、続いてきた二人目の武器を受け流す。横から飛びかかってきた三人目の方は、振り向きもしないまま足払いをかけて体勢を崩し、
「ウラァ!」
と気合一発、棍棒を振り回して、ごん、ごん、と二人連続で頭をぶん殴り、気絶させた。
「こ、この野郎!」
残る一人の声に、はっと振り返る。いつの間にか背後に回っていた四人目が、走り込んでくるところだった。
だがそこに、「ハイちょいと失礼しますよ」とばかりに、しゃーっと軽快な音を立てて固形石鹸が床を滑ってきた。男は見事それを踏んづけ、つるつるっと足をばたつかせた後、派手にすっころび、ずだあああん! と後頭部を打ちつけて、微動だにしなくなった。
「何じゃい、呆気なかったの」
いつの間にか湯船から上がり、次に投げようとしていたのか、木の腰かけを持ち上げていたリルが、つまらなそうにうそぶく。固形石鹸を放ったのも、間違いなく彼女だろう。
肩を落として一息つき、ライルは倒れている面々を見渡して、その中にさっき見た宿の主人が混じっている事に気づいて、ぼそりと零した。
「やっぱりグル、か」
旅人を襲わねばならぬほど困窮しているのは哀れだが、だからといって、同情に値する行為ではない。とはいえ、この手で彼らを断罪する事を許されているほど、ライルは徳の高い人間でもない。とりあえず、目を覚ました途端に再び襲われないように、男達の服で、それぞれが身動きできないように縛り上げると、リルの方を振り向く。
「もうここには泊まれねえな。野宿覚悟で次の町を目指すしかねえ」
いや、次の町でも同じ事態が待ち受けているかもしれない。そんなぼんやりとした不安に溜息をつくが、リルの懸念は、別の所にあったらしい。
「美味しいご飯を食べられると思ったんだがの」
胸元までタオルを巻いた格好の彼女は、ぶつくさと文句を垂れながら、足元の男の頭を蹴飛ばす。その身体は、見た目から判断する事は可能だったが、当然ながらぺったんこだ。くびれも出っ張りも無い。
「なんじゃい、乙女の柔肌をじろじろ見おって」視線に気づいたリルが、タオルを引き上げながら、じっとりとした視線で睨みつけてくる。「欲情でもしたんか」
浴場で欲情。そんなくだらない駄洒落が脳裏を華麗に駆け抜けていった。
「んな訳あるかこのお子様!」
ライルは大音声をあげ、ずかずか大股に露天風呂を出てゆく。その頭に、カーンと、腰かけが直撃して、ライルは「ガッ」と前のめりに転びかけるのであった。
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