試練

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試練

 母は午後から診療はせず、事務室や診察室の周辺で細々(こまごま)と備品の点検をしたり看護師を観察したり、トイレや玄関等の見回り、待合室にいる知り合いと世間話したりしている。  職員が皆、帰ると、PCにデータを打ち込む俺の横で母は、お茶をすすりながらビッシリ話かけてくる。誰もいない時間は、とにかく少しでも俺のそばで話続けたいのだ。俺が書類を医務室から事務室へ運ぶ後から金魚の糞のように話しながらついて来るあり様。  それだけで十分に疲れるが、その話の内容がまた、頭が痛くなる、心が重くなる、胸が苦しくなる内容なのだ。 「看護師の木嶋を辞めさせたい。アレはもう悪い意味でお局様になっている。ああいう態度でのさばらせておいては、若い実力のある看護師まで辞めたくなる。冴月、何とかうまく問題にならないように辞めてもらう方法を考えて。夏までには辞めさせる方向で頼んだわよ。」 「事務員の佐藤は危ない感じがする。最近、毎日会計が合わない。あの子、わからない程度に1000円、2000円、チョロまかしてる気がする。他の事務員の目を光らせるか、何か考えて、とにかくお金が合わないなんてことがあってはならないと、冴月から厳しく指導してちょうだい。」 「そういう難しいことは院長の母さんから伝えた方がいいんじゃないかな?」 初め俺は逃げ腰だった。そうした問題を丸く解決する自信がなかった。だが、母は必ずこう言った。 「私が言うと角が立つ。若いあなたが言いにくいことを申し訳なさそうに伝える方がいい。できるでしょう、そんなことくらい。女同士だと、どうしても感情的になりやすいから。男のあなたが整然と落ち着いて、威厳を持って、誠意と優しさを尽くして上手く伝えた方がいい。」  そんなこと俺にできるか。俺は吐きそうになるくらい悩んだ。お局様に辞めてもらうまでには体重が5キロ以上落ちた。事務室の会計が合わない問題を解決するため俺は医療事務の勉強までした。精算する前に俺に言ってくれと伝え、自分で細かく点検しながら、誰もイヤな気持ちにならず、会計がピッタリ合う方法がないか模索した。  そうした頭が痛くなるような問題は、解決しても解決しても次々に発生した。母は毎日のように新たな問題を見つける天才で、まるで俺の精神を竹刀で打ち続けるかのように、すべての問題を俺に押し付けた。  東京から戻って来て3年間、地獄だと思った。とにかく辛かった。真面目に逃亡しようかと思った。死にたいとさえ思っていたら、俺じゃなく兄が死んだ。
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