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兄の死
世界で一番大好きな人間だった兄が、もうダメだとわかった時、俺は自分の体が八つ裂きにされる思いだった。兄の嫁や子どもたちは気丈に兄を慕い続け、最後の最後まで兄の生還を信じて励まし続けていた。母は半狂乱になり、仕事も食事もできず寝込んでしまった。
兄が亡くなるまでの1か月位前から、俺も密かに涙を落とした。何をしていても兄の痩せた顔が頭から離れなかった。
兄が亡くなる3日前の夜中、照明を消した病室で俺は一人、兄の顔を見ていた。兄は酸素吸入のマスクを少しずらし
「冴月。迷惑かけるな。ごめんな。」
と言う。
「迷惑なんて。少しも感じない。兄さん何か今、俺にできることあるかな?」
「ああ・・・冴月はいつも冴月らしく、明るく元気に野山を走り回れよ。人に振り回されるな。とんでもなく自由な、天衣無縫な冴月の命に、俺は乗り移りたい。いいかな?」
「兄さん・・・ありがとう。兄さんの魂が乗り移ってくれたら俺、百人力だ。」
俺は暗闇に紛れて滝のように涙を落とした。
少し時間を置いて、兄は言葉を続けた。
「冴月。俺は間違っていた。いい人になろうとするな。無理することは不自然なこと。自然に生きろ。やりたいことをやれ。やりたくないことはするな。人のために生きるな。自分を生きろ。自分らしく生きればいい。そうすれば、きっと、病気にならない。」
兄は最後に、こう言った。兄の声で聞いた最後の言葉だった。
「人を憐むな。母さんも、俺の妻も子どもも、どんな人も、決して憐むな。そんな暇あったら・・・おまえにしか考えつかない新しいことを考えろ。目先の愛に溺れるな・・・俺のピアノだけ・・・もらってくれ。たまに弾いてくれ・・・」
その後、兄は昏睡状態に陥って静かに逝った。
いや、きっと静かに俺に乗り移った。兄がそう望んだのだ。兄は俺に乗り移り、目先の愛に溺れず、新しいことを考えるんだ。自由に天衣無縫に自分らしく生き直すんだ。
兄の葬儀は、母が寝込んでしまったので俺が喪主を務めた。俺は粛々と葬儀を済ませた。
その後の後始末や雑務も俺は苦にならなかった。死にたいほど追い詰められていた、かつての迷える子羊みたいな自分は、遠いどこかの他人のように思われた。
それから俺は、まさに兄の魂が乗り移ったかのように人が変わった。
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