秘密のバイト

1/1
前へ
/55ページ
次へ

秘密のバイト

 さて、お堅い話に疲れたから、ここで、まったく違った愛の話。  大学生の頃、誰にも内緒で・・・この時点で内緒ではなくなるが・・・ホストクラブでアルバイトをしていた。  新宿の紀伊国屋書店に本を探しに行った時だった。目的の医学書を購入してから俺は輸入物のピアノの楽譜を何気に立ち読みしていた。ちょっとした装飾音とかジャズアレンジのヒントを盗み見て、小さく口笛でなぞったりすると結構覚えていられるものだ。  その時、急に声をかけられた。 「ピアノ弾けるんですか?」 「あ? はい、まあ・・・」 まったく見知らぬ男だった。30代位の身長178cmの俺と同じくらい背の高い男でスーツをビシッと着こなしていた。 「ピアノのアルバイトしてみませんか?報酬は弾みます。時給10,000円で気が向いた時だけで結構ですから。」 「時給10,000円? どんな場所で?」 「ここからすぐ近くです。今、お時間があるなら、行ってみませんか?」  話を聞いてみるだけでも面白そうだと思った。その男は非常に誠実そうな堅気の人間に見えた。店を出る前に差し出された名刺には 『株式会社 CHOPIN 代表取締役専務 荒木 優』 と書かれていた。CHOPINはショパンと読む。音楽関係の会社なのかと思った。 「アラキスグルと言います。男性社員7名程の小さな会社ですが、売り上げは確実に伸びています。」 「どういった仕事を?」 「簡単に言えば、金持ちを相手にした軽い精神的サポート業です。」  その店は飲み屋街から少し離れたオフィスビルの13階にあった。入口には小さく『株式会社 CHOPIN』と他のオフィスと変わらない看板があるきりで、ドアをあけると一般の会社の事務室のようにデスクが並んでいる。  その部屋を通り抜け、社長室を開けると、さらにその奥から賑やかな声が響いてきた。  社長室の奥の扉を開ける。高級ホテルのラウンジのような広い洒落た空間の中央にスタンウェイの漆黒のグランドピアノB-211が置かれていた。ソファーもテーブルも選りすぐりの良い素材のものを使用している。  白い壁と天然木との落ち着いた色調で統一された空間を、照明で柔らかな色に照らし出している。入り口付近は暗めのパープル。ピアノの周辺は明るいパープル。客が座る座席は、六箇所に分かれており客の希望なのかグリーン系、レッド系、ブルー系、パープル系、無色暗め、無色明るめと色調が違う。  店にいた数人の男たちは皆、荒木と同じようにキチンとスーツを着込んでいた。 「おかえりなさいませ。専務。」 と近づいて来た男に、荒木は俺を 「こちらはピアニストを希望されていらっしゃるシオンさんです。」 と紹介した。俺は首を傾げたが、荒木は軽く右手を立て『まあ、後程』みたいな合図をした。  それから社長室に一度戻り、別の扉をあけると楽屋裏的な広めの部屋があって、鏡と整髪料、ロッカー、片面の壁側には男性用のスーツがズラッと収納されていた。 「試しにピアノを演奏していただく前に、お好きなスーツに着替えていただきたいと思います。お客様がいらっしゃいますので。」  俺は思い切って黒のストライプの地模様の細身のスーツを着てみた。シャツも黒にした。髪はもともと少し天パががっているが、スーツにふさわしい程度にハードムースで固めた。何だかホストみたいだ、と思った。いや、まてよ?真面目に、ここはホストクラブか?  着替えて出て行った俺を見た荒木は 「思った通り。月100万は軽く稼げますよ。」 と言った。 「あ・・・俺、酒は飲みません。ここホストクラブですよね?」 「わかりやすく言えば、極秘の社交クラブです。お客様は50代以上の女性だけです。音楽関係の方もいらっしゃいます。芸能人、作家さん、政治家の先生、一流企業トップ、大学の学者さん、その他さまざまな職業の方がいらっしゃいますが、お店の中ではお客様にも源氏名を使用していただきます。先程、説明もなく、あなたをシオンと紹介させていただきましたが、実は、シオンという源氏名は、この店の伝説のピアニストにつけられた由緒正しき名前です。もし、あなたがシオンとして、この店で働いていただけるようでしたら、そのうち伝説の詳細を伝えさせていただきます。」  とりあえず入社試験を兼ねて、何か店の雰囲気に似合う曲を弾いてみるようにと言われ、年齢層を考え『テイク・ファイブ』『星に願いを』『I love you』を控えめに演奏してみた。  3曲目の途中から、お客様らしい美しい女性がピアノにもたれ掛かって俺を見ながら聞いていたが、曲が終わった時、物静かに言った。 「シオンって言ったかしら?ショパンは弾けないの?」 「大好きです。何かご希望の曲はございますか?」 「ノクターンなら何でもいいわ。みんなピアノは好きだから。何曲か続けて弾いて。遠慮しないでいいわ。ショパンコンクールだと思って・・・しっかり弾くのよ。あなたが合格か不合格か、私が決める。」  そう言われると俺の中で挑戦的意欲が掻き立てられたのは事実だ。俺は楽譜を見ないで弾けるノクターンは、そう多くなかった。1番、2番、8番、13番、17番をぶっ続けで弾いた。ノクターンは好きで毎日のように演奏していたので多少のミスタッチはあっても、なんとか自然な感じに演奏できたのではないかと思った。  演奏を終えて立ち上がると、さき程の女性が俺を迎えに来て、レッド系の空間の椅子に座らせた。 「お疲れ様。何か好きなものをお飲みになって。」 「水、お願いします。」 「あら・・・もっと美味しいもの、シャンパンはどう?」 「いえ。アルコールは飲みません。」 「ウフフフッ そうなの? ノンアル・シオンね。」  ウェイターらしき男性が俺に水を運んで来てくれた。 「私はローズマリー。よろしくね。」 その美しい女性は50代以上には見えなかった。 「あ・・・はい。」 「シオンはおいくつ?本当の年じゃなくていいの。あなたの旬はおいくつ?」 「27歳です。」 俺は当時22歳だったが、少しでも客に近い方がいいかと考え、そう答えた。 「相談にのっていただける?」 「はい。僕でよろしければ。」 「ふふふっ。可愛いわね。私、最近、疲れているのに寝つきが悪くて困ってるの。お酒を飲んでもよく眠れないのよ。」 「お仕事で体を動かす機会は多い方ですか?」 「デスクワークが多いかしら。」 「それでしたら、もし余裕があればですが、お仕事帰りにスポーツジムに通われる余裕はございませんか?」 「運動?苦手だわ。」 「ウィンドショッピングを楽しむ程度でも違うかと思います。」 「なるほどね。シオンといっしょなら、それも楽しいかしら?」 「アルコールは睡眠の質を下げますので、できれば最低限に控えた方が熟睡できるかと存じます。」 「そうなの?」 「はい。初めは寝ついても後半、浅い眠りが続いたり時々目が覚めてしまったりトイレに起きてしまうことありませんか?」 「あるわ。詳しいのね。」 「ありがとうございます。たまたま知っていた知識ですので。」  こんな調子で俺はいろいろ相談された。 「ショパンのノクターンのCDは誰のがお勧めか?」 「便秘がちだけど薬を飲むと下痢する」 「会社の社長室にふさわしい明るい絵を探している」 等、内容がたまたま俺の知識のストライクゾーンど真ん中だったこともあり、俺は淡々と彼女の問いに答えた。  ローズマリーは俺を気に入り、来週の金曜日には必ず俺を指名するから20時までには来てくれと言った。 「シオンの生演奏が聴けるならショパンのCDも必要ないわね。もしかして音大生?」 「いいえ。違います。」 俺は、そんなフワッとした感じで、その日から毎週木・金・土の3日だけホストクラブで働くことになった。もちろん家にも友人にも誰にも秘密にしていた。  後に、ローズマリーはもともと荒木さんのお客様だったことを知ったが、荒木さんは俺を気に入ってくれた。俺が望まないことは強要しなかった。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!

103人が本棚に入れています
本棚に追加