若紫

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若紫

 ホストクラブで印象に残っている最後の一人。彼女は「若紫(わかむらさき)」と名乗っていた。名乗るとはいえ、彼女とは一言も言葉を交わしたことはない。  若紫は俺に一晩で10曲のまとまったリクエストを予約してくれるお客様だった。毎月20日前後にリクエストの予約が入った。  仕事帰りにココに寄るらしく、いつもグレーか黒の量販店で売っているようなパンツスーツを着ていた。髪はショートカットで化粧もしていなかった。そのせいか50歳以上には見えず、性別さえ不明な感じがした。身長は160㎝くらいで痩せていた。一見、少年のようにも見えた。  若紫のリクエスト曲はすべてゲーム音楽だった。ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、サガフロンティア、クロノトリガー、タクティクスオウガ、ファイアーエムブレムなど有名RPGに登場する様々な曲目を、若紫は楽譜まで用意してリクエストしてきた。俺はまさに、それらのゲームに溺れた世代だが、若紫もゲーマーなのだろうか?  彼は・・・と表現したくなるくらい若紫の表情は荒野を目指す男のように凛々しく涼しげで、俺は若紫の手から新たな楽譜を受け取るたびに、何か異世界の平和を守るため重大な任務を背負って立ち向かわねばならないような気持ちに追い込まれたものだ。  ゲーム音楽を知らない方に簡単に説明すると、基本はクラシック音楽と変わらない。オーケストラで演奏されている曲をピアノで再現する場合、ウソだろ?というくらい難しい曲もある。難しければ難しいほど闘志が燃えるのはゲームと一緒だ。何としても期限までにクリアしたくなる。  結局、若紫がどんな人間だったのか、なぞのままである。  俺は一年でホストクラブのバイトは辞めた。国家試験の勉強その他、時間に余裕がなくなったためだ。馴染みのお客様に挨拶もせず忽然と消える形になった。荒木には、もしお客様に俺のことを聞かれたら、事故で死んだと伝えてくれと言った。ホストとしての俺、ピアニストとしてのシオンは世の中から消えるのだ。事故で死んだも同然だ。  最後に荒木は言った。 「伝説のシオンは必ず若くして死んだ。一人はバイク事故、一人は冬山登山、一人は女に刺され、一人は入水自殺。君はどうする?どんな事故がご希望ですか?」 「ハハハッ・・・そうなんですか。妖怪に呪われた・・・とでも伝えてください。たまには、そんなシオンがいても面白いんじゃないかな?」 「いいな。妖怪ね。君なら実際、妖怪の友だちがいても不思議はないな。ありがとう。楽しい一年でした。いい医者になって下さい。」 「あれ?知ってたんですか?」 「紀伊国屋で初めに声をかけた時、まず医学の専門書買って、その後、ピアノの楽譜を見てましたよね。何となく、それで興味が湧いて声をかけさせてもらいました。」 「医学書の階と楽譜の階、違いますよね?」 「ふふふっ・・・時々、精神医学関連の書籍を探して読んでいます。こういう仕事する上では必要なことです。」 「そうですか。恐れ入りました。いつか、またチャンスがあれば飛び入り無報酬でバイトさせて下さい。」 「どうぞ。いつでもお待ちしています。」  三年後、荒木の携帯に電話すると、その電話番号はもう使われていなかった。店を訪ねてみたが、そこは別の会社のオフィスになっていた。
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