終わりなき放物線

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終わりなき放物線

 ミツルのお通夜は宗教や形式に捉われない、お別れ会という名称で行われた。  ご家族、主治医、介護にあたってきた方々などからのお話がメインだった。  小さな会場で、こういう時節柄、近親者のみのお別れ会。彼の友人は俺を含めて3人だけの出席。  16年間、主治医としてミツルに向き合って下さったK先生から感動のお話を頂いた。  K先生が初めにミツルと出会った時の印象。ミツルは真っ直ぐな人、誠実な真面目な完璧主義者で、一切の妥協を許さない人である事に、まず驚いたと言った。だいたいのALS患者さん、又は、もう完治することのない病に苦しむ患者さんは、絶望感に打ちひしがれたり、頑張っていても時に憂鬱や倦怠感に打ちひしがれるものだが、ミツルには、そんな気配は一切なかったと言う。  むしろ、対峙する主治医が励まされる事の方が多く、患者というより親友と感じ、人生の師とすら思ったと言う。  ミツルは、使う薬の選択、治療方針の具体的計画等、詳細に主治医と共通理解し、又は考察、提案し、様々な薬や治療法を自らの身体で検証し、自らの判断で治療、養生に真剣に取り組み続けたとのこと。    一昨日に亡くなったが、その亡くなる方針自体、彼自身が決定したことを語った。1月中旬から体調を崩して徐々に体力を消耗していたが、この1週間はいよいよ辛かったらしく、一昨日の朝、往診の折、彼自身が最後に使用する薬を選択したと聞いた。  主治医のK先生の話はミツルに対する敬愛と尊敬に満ちていた。  ミツルは、身体がだんだん動かなくなるにつれ、その身体的条件の中で最大限に社会に貢献できることは何か、真摯に探り、実行する事に情熱を燃やしていた。   動けないなら、動いて働いている人が読めない分まで本を読むと、寝たきりになってから2000冊以上の様々な本を読んだという。  そこから得た哲学や知識を、彼は生き様として体現する事で周囲に感動を与え続けてきた。  例えば、彼の世話をする介護士さんやヘルパーさんは、彼の徹底した完璧主義に泣かされ挫折した方も多かったらしいが、それは彼が、ALS患者に対する適切な介護とは、どういったものであるべきか、何はなぜいけなくて、その理由はなんなのか、具体的な方法を後の介護のためにも厳しく検証し、記しておくべきと考えた結果であった。  ALS患者は横隔膜さえ動かなくなるため、通常の病気の患者に比べても非常に扱いが難しい。ミツルの横隔膜がほぼ完全に動かなくなってから、彼は肺と肋骨との僅かな隙間を利用してギリギリで呼吸を続けていた。  そうした生身の人間の体位を変えたり移動させるにあたっては、細心の注意が無ければ一瞬で命を落としかねない。  ミツルは自らの痛み苦しみを経験しながら、適切な方法を探り伝え記録し続けた。  そのギリギリの呼吸状態で奇跡的に15年以上も生きられたのは、ミツルに強烈な生きる意志があったから。どんな状態であれ、自分にできること、自分の願うことを、一つでも多く一人でも多くの人に発信したいという、強く真っ直ぐな祈りがあったからだろう、とK先生は語った。  ミツルの生き様は、あまりにも明確で迷いなく、身体こそ動かなくなり命を終えたが、彼を知っている人の誰もが、彼を失ってはいないはずだと、K先生は断言した。  ミツルは苦しみから解放されて、各人の心の中で半永久的に上昇し続ける澄み切ったエネルギーに変わったのだ。少なくとも俺は、そう感じている。  身体が生きられる人生の時間は短い。だが、本気で自らの生きる意味を問い続けるなら、そのエネルギーは必ず誰かに受け継がれる。  どんな深い雪道でも、先頭に歩く者があれば、その後にならついて行ける人がいる。誰かが先頭を歩かなければ、開かれない道もある。  ミツルは自らの身体と命が置かれた過酷な運命の中にあって、むしろ嬉々として、堂々と先頭に立って歩みを進めた。その道が過酷であればあるほど、彼は同じ病気等で、後に歩まねばならない者たちが少しでも明るく強くしなやかに、最後まで自分らしく生き抜くための多くの示唆を残すことに懸命になった。  そうした主治医のK先生の話に、俺は身悶えした。  息をせずに眠るミツルの顔は、不思議に20年前と変わっていなかった。むしろ、凛々しく健やかにさえ見えた。  彼は病魔と戦ったのではないのだと思った。病魔さえ彼の前では、与えられた一つの素晴らしい世界だった。  ミツルは自らの置かれた世界の中で精一杯、真っ直ぐに歩み続けたのだ。彼の穏やかな顔は、俺にそう語っていた。    誰もが様々な運命に翻弄されるけれど、ミツルのように淡々と自らのできることを行うことこそ本当の幸福に近づく確実な歩みなのかもしれない。  とりあえず無理しても、最期の別れに行ってよかった。きっとミツルが俺を呼んだのだ。 『お前は、まだ、こんなことくらいで迷ったりしてるのか?しっかりしてくれよ!』 と、肩を叩かれた気がした。
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