友の訃報

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友の訃報

 今朝、スマホに友人の訃報が届いた。大学で一緒に勉強した仲間だ。  20年近く前、初めて彼に会ったのは研修に行くバスの中だった。二人掛けの席で、彼は隣に座っていた。学年は一緒だったが年は俺より二歳上だった。 「初めまして。宮川ミツルと言います。ミツルと呼んで下さい。」 と彼は言った。    彼の言葉は不思議なイントネーションだった。岩手県の気仙(けせん)地方の出身だった。試しに気仙地方の言葉で話してもらうと英語以上に意味不明だった。後に彼の家に遊びに行った時、『気仙語辞典』なる冊子を見せてもらった。  俺は、歴史の浅い、全国各地から寄り集まった人種で構成されるアメリカ的な北海道で生まれ育った。彼との出会いは、現在使われている日本語を支える多くの言葉と、それに付随する豊かな文化が、全国に無数に存在していることを考える切っ掛けになった。  彼は非常に真っ直ぐな人間で、生真面目、質素、誠実、純粋といった言葉が似合う人間だった。その上、几帳面、神経質、衛生的なこだわりは尋常ではなく、潔癖症という症状が顕著な男でもあった。まあ医者はそのくらいでなけりゃいけないかもしれないが、俺には今、書き出したすべての言葉の欠片もないのが実際だ。  ミツルと俺が友だちでいられたのは、多分、お互いの違い過ぎる性質に興味が尽きなかったからかもしれない。  ミツルは無農薬野菜とか有機農法にこだわり、食材を選りすぐり、その栄養価が失われないよう工夫して料理を作り、一緒に食べ合わせる食材によって、より高い効果を生むような献立を考え、食べる温度がどのくらいの時に最も体に吸収されるかまで計算して、毎日三食きちんと食べるという驚くべき習慣を守っていた。  俺などは二日酔いで朝は胃薬だけ、昼は適当な空き時間に気の向いたものを好きなだけ食い、夜は夜で家に居ればカップ麺とかパン等で夕食を済ませるというデタラメ不健康極まりない食生活。カップ麺さえ買いに行くのが面倒だと何も食わずにコーヒーだけで夜更かししていた。    そんなことじゃ病気になると、ミツルは俺を心配して、時々、上手い料理を作ってご馳走してくれた。普段ろくなモノを食ってない俺は、彼の手料理をご馳走になった時は、あまりの美味さに感動し、時には涙さえ出た。  彼の部屋は、いつ訪ねても整然と片付いており、あるものすべてが清潔に保たれていた。俺の部屋は足の踏み場もなく本が詰まれ、油絵具やキャンバスが散乱し、埃にまみれていた。『触れない絶頂』に登場する、あの部屋は実際に俺が大学時代に住んでいた部屋をモデルにしている。  大学5年の何かの実習の折り、ミツルが暗い顔で言った。 「どうも右手の小指側が思うように動かない。メスやハサミを上手く使えない。何かをつかもうとして、つかんだつもりが・・・落としてしまうんだ。」 「疲れてるとか、緊張してるって訳じゃないのか?」 「いや・・・神経が麻痺してるようなイヤな予感がある。」  その後の検査で、ミツルはALSという病気であることが判明した。現在はまだ不治の病、スティーブン・ホーキング博士と同じ病気である。  彼自身のショックを考えると、どんな態度で接するのが良いのか俺は即断できなかった。ミツルには親友が何人もいたので、俺は半月位の間、彼のことは親友たちに任せ、自分の中で彼のショックを反芻していた。    ミツルの病気が判明して、初めて彼に会った時、俺は以前と変わらぬ明るい笑顔で接した。どんな風に接したからといって病気が良くなるものでもない。俺にできることは、彼の生きる時間を明るく前向きに、魅力ある濃厚なものにすることだと思った。細かい心配は親友たちに任せ、俺は俺にできる違った角度からのアプローチを考えた。  ミツルがまだ何とか普通に動ける間は、行きたい街や場所まで仲間と旅行した。彼をサポートしながら街中で各種イベントに参加したり、会いたい人、行きたい店、してみたい事、どんどん消化するように共に時間を過ごした。  大学を卒業する前に、彼は既に歩けなくなった。病気の進行は思った以上に早かった。この調子では、本当に、あと何年生きられるかわからないと思った。けれど、ミツルの精神力は凄まじいまでの気迫で、真っ直ぐに今日まで生きたのだ。発病してから約16年。素晴らしい生きざまだった。  彼の素晴らしさは、次のページに書き留めたい。  俺は、明日、ミツルのお通夜にどうしても参列したいと思い、明日の午後の診療を母に依頼した。母は 「そんな人が集まるところへ行って、あなたがコロナに感染したら、もうお終いだ。行くべきでない。」 と言った。 「どうしても見送りたい友だちなんだ。こんな時だからこそ、俺は行きたい。直接、彼とお別れしたいんだ。」 と母を説得した。  にも拘らず、午前中、その話をしてから今まで、俺の顔を見る度に母はナンデカンデ俺をお通夜に行かせたくないという言葉を吐き続ける。 「今は、どの葬儀社もほとんど身内以外の参列者は玄関で受け付けるだけらしい。わざわざ遠くまで行く意味があるのか?」 ミツルのお通夜の会場に行くには車で片道約5時間はかかる。北海道はまだまだ山は冬道だ。だが、俺にとって、それくらいはどうってことない。 「こんな時期に、わざわざコロナに感染しに行くなんて馬鹿げている。あなたが遠くまで行ってコロナになったら世間の笑い者。私はもう生きていけない。」 「死んだ友だちだって、そこまでしてあなたに来てほしいなんて思ってない。生きてることに感謝して仕事に打ち込む方が、供養になるとは思はないのか。」 「どうしても命がけでも行くというなら、マスク、消毒薬、手袋、本当はゴーグルもしてもらいたいが・・・徹底的に防御する体制で出かけるように。」  などなどのセリフを五分おきに俺の背後に来て呟くありさま。  なんだろう? なぜそこまで怯えるのだろう?   思うに、他に頼れる人間がいないということだ。俺に何かあったら、もう生きていけないほどに思い詰めているのだ。だとしたら、本当に怖いのはコロナウイルスではなく、自分の人生そのものの行方に一人では責任を持てそうもない、という自分自身の現実が怖いのではないか?  人は誰だって家族や社会で支え合って生きている。誰かに助けてもらいたい、愛されたい、頼りたい、何とかしてほしい、という弱さや欲望のすべてを否定するつもりはない。高齢だったり、子どもだったり、各種事情で他人の力を必要とする人は、堂々と頼ればいいと思う。  その際の基本的なルールは、愛と信頼だと俺は思う。人の力を借りるにしても貸すにしても、そこに愛と信頼が存在しなければ、継続することは難しい。どんなに金を積まれても、暴力で脅されても、一度や二度の力の貸し借りはできても、何年、何十年と互いを支え合うことはできない。それを可能にするのは愛と信頼しかない。  長年、愛と信頼で結ばれて来た友だちに直接、別れを告げたいという俺の気持ちは、果たして非常識だろうか? せめてそれくらい愛と信頼で、認めてもらいたいと願う俺は、間違っているだろうか?  俺は、お通夜に参列する腹づもりだ。  もし、それでコロナに感染したら、ここに続き書きます。感染しなくても続きは書きますが(笑)
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