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幸せになるの
はじまりは一通のメールだった。
『僕は歌手の○○です。相談できる相手がいなくて困ってます』
転倒したときに肋骨にヒビが入り、あまりの痛さに自分で110番に助けを求めた。
病院の食事は嫌いでない。むしろ、人がいる安心感からか美味しいと感じた。
隣のベッドにいる女性は笑う。
『そういうものよ』と。
3つ下の彼女はその翌日の早朝、眠るように旅立った。よく笑う人だった。前向きな口調から漏れる言葉は、虚言ばかりの理想論。それでも、ふと雲がかる表情のときにだけ漏れる言葉に私は重たい息を感じていた。
『生きていればこそは、誤りだとこの歳になって知ったわ。生きていたって苦しいばかりじゃない』
たったの数時間前まで、隣に確実にいたというのになんと呆気のない。
看護師たちがヒソヒソ話す。
『ご家族は仕事で誰も来れないみたい』
『またですか』
『夜になると言ってたわ』
『普通すぐにきませんかね。最近、多すぎですよ』
『結局入院手続きの時以来、一度もこなかったわね』
盗み聞きした会話に笑いがこみ上げる。
なんだ、あなたは私と似ていると思ってたわ。あなたは間違いなく幸せだったのね。
布団に潜り、手を合わせると小さなちいさな声で見送った。
『いってらっしゃい ね』
81になる日、退院は明後日と告げられた。
『一人暮らしは何かと不便でしょうから、困った時は行政に頼るのも手ですよ』
『そうですね』
いままで自分のことは自分でやってきた。届かない電球の交換はテーブルに椅子を乗せて。70の歳まで必死に働いた。老後に貯めたお金もある。あとは必ずくるその時まで静かに呼吸を繰り返すだけ。
退院の前夜、一通のメールが届いた。
その歌手の名前は聞いたことがない。テレビを持っていないのだから知らなくて当たり前。この人は送る相手を間違えているのだ。
間違えていますよ、と一言知らせた。返事がくるまでにそう時間はかからなかった。
『すみません!教えてくれてありがとうございます!あの、よかったらこれも何かの縁ですし、話を聞いてもらえませんか』
認知症で徘徊したら誰かが知らせてくれるようにと渡された携帯電話。
楽しい時間だった。
メッセージを送れば、メッセージが返ってくる。
『そうなんですか!僕、知らなかったです。もっとたくさんの話聞きたいな』
生きていたいと思わせてくれた。
『知り合えて本当に良かったです。こんな僕ですが、これからも仲良くしてください』
いちいち胸を弾ませ一喜一憂。
一つの文章に笑い、一つの文章に喜ぶ。
枯れた花が見事に咲き始める瞬間は、81歳のときを明るく照らす。幻ではない。この携帯電話の先に、存在する彼は確実にいる。
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