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第一章 父親の面影
私はこの日、修道院へと入った。十六歳の誕生日のことだ。
修道士見習いとしてこの修道院で生活をするために、私はこの教会の聖堂で祝福を受けた。それが喜ばしいことだったのか、今となってはわからない。
これからどんな生活を送るのか、まったくわからずに不安を抱える私に、世話役の修道士がふたり紹介された。ひとりは、ラズベリー色の髪を短く切り揃え、真鍮の丸眼鏡をかけているおっとりとした表情の方。もうひとりは、白銀の髪をきっちりと編んで結い上げている、大柄な方だ。彼らはそれぞれこう名乗った。眼鏡を掛けている方がマルコさんで、白銀の髪の方がアマリヤさんだそうだ。
はじめて会う人ばかりで緊張したけれども、これからなにか困ることがあれば、まずはこのふたりのどちらかに相談しなさいと司教様はおっしゃった。
「これからよろしくお願いします」
私がそう挨拶をすると、マルコさんもアマリヤさんもぺこりと頭を下げて挨拶を返す。
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
ふたりとも穏やかな笑みを浮かべていたけれども、私の不安は払拭されなかった。
アマリヤさんの方へ目をやる。彼はいま、穏やかな表情をしているけれども、私はその姿を見て恐れを抱いた。
アマリヤさんはあまりにも、私の父親に似ていた。
修道院に入り見習いとしての日々は穏やかなものだった。目覚めてすぐの朝の勤め、質素な朝食、そしてその後には葡萄畑の世話。葡萄畑の世話は、かつてアマリヤさんが修道士見習いとして過ごしていた頃に担っていた仕事らしい。今はどうしているかというと、夜、星を眺めて天文の研究をするために昼食後から夕べの祈りまでの時間は寝ているらしい。朝の勤めから昼食時までは、彼専用の研究室で星の記録をまとめたり、どの様に星が動くかを計算するための計算方法を考察していると聞いた。
そういった生活をしているから、私がアマリヤさんを頼ることは少なかった。葡萄畑から少し離れた場所にあるハーブ畑に行けばマルコさんがいるし、畑仕事が終わった午後になっても、薬剤室に行けばマルコさんは確実に起きてそこにいるからだ。
アマリヤさんのことを避けているのではないかと言われれば、確かに私はアマリヤさんのことを避けていた。家にいた頃、私に厳しく、つらく当たっていた父親に似たアマリヤさんがこわかったのだ。アマリヤさんはそんなことは夢にも思っていないだろう。だからある日、夕べの祈りの後にこう言われた。
「ヨハネは私のことを頼ってくれないけど、私はそんなに頼りないかな?」
なんだかしょんぼりした顔で私に話しかけたアマリヤさん。その表情を見て、私は知らぬ間に彼のことを疵付けていたのだと気づいた。どうして私がアマリヤさんを避けているのか、その理由を話せば私の中でも整理が付くような気がしたので、思い切ってこう返した。
「実は、アマリヤさんが私の父親に似ていて、それで」
恐く思えてしまう。その言葉は続けられなかった。けれども、言葉を飲み込んだことにアマリヤさんは全く気づかなかったようで、にっこりと笑ってこう言った。
「そうなんですね。
それなら、私のことをお父さんだと思って頼りにして良いんですよ。
すこし恥ずかしいかもしれないけど」
こんな言葉を父親からかけられたことは、修道院に入るまで一度たりともなかった。ただ私に暴力を振るって、すこしでも出来ないことがあると罵倒してきた父親。その父親に似たアマリヤさんが、優しく私の頭を撫でる。
この人のことを父親だと思って良いと言うのなら。思わず涙が零れてきた。
「ああ、どうしました?
本当のお父さんのことを思い出しちゃいましたか?」
アマリヤさんの言うとおりだ。本当の父親のことを思い出して、もうあの人などいらないと思って、目の前にいるアマリヤさんを……
「お父さんみたいに、抱きしめて下さい」
震える声でアマリヤさんに言う。叱られるかと思ったけれども、アマリヤさんはなにも文句など言わずに、優しく抱きしめてくれた。
私は父親の温もりなんて知らない。けれどもこうしてはじめて、親として慕うべき人の温もりを知った。
「よしよし、寂しくなっちゃったんですね」
アマリヤさんは私の頭を、その大きな手で優しく何度も撫でてくれた。温かくてひどく安心した。私のほんとうの居場所はここなのだと強く感じ、この優しい人こそ私のほんとうのお父さんなのだと思えて仕方なかった。
それからの日々は、マルコさんが驚くほどに、アマリヤさんを頼って過ごした。つらいこと、楽しい事、そんな些細なことをアマリヤさんに話し、その度にアマリヤさんは優しく笑って、頷きながら聞いてくれた。
ある日、昼食前にマルコさんに言われた。
「ヨハネもすっかりアマリヤさんに懐いて。
はじめのうちはアマリヤさんとうまくやれていなかったようですけれど、なにかあったのですか?」
その言葉に、私は顔が熱くなる。はじめのうちはアマリヤさんが恐かっただなんて、そう思っていたことが恥ずかしくなった。
「アマリヤさんが、優しくて頼りになる方だと気づいて、それで」
私の言葉に、マルコさんは微笑む。
「アマリヤさんは少しそそっかしいところもありますけれど、いいひとですからね」
マルコさんには言えない。いや、マルコさんだけでなく、アマリヤさん以外の誰にも言えない。私が心の中でアマリヤさんのことをお父さんと呼んで慕っていることを。
ふと、昔のことを思い出す。私のほんとうの父親はどんな顔だっただろう。ただただ私につらく当たっていたことしか思い出せない。
でも、もうあのひとのことなど思い出す必要は無いだろう。いまや私が父と慕うのはアマリヤさんだけなのだから。
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