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 ジェニースは夢をみていた。  どこまでも続く真っ黒な空、赤くひび割れた大地、くっきりと視認できる地平線、一本道の端にたたずむ自分。  吹くはずのない風が吹いて、ジェニースのこしのない金髪を吹き散らす。  音はない。声も出ない。  まず、声を出す人間が自分の他にいない。  自分はといえば、細かな鉱物できらきらと光る赤土に塗れて立ち、どこかすがすがしい気持ちで道の先を見つめているばかり。  言葉など要るわけがない。  要るのは瞳。  道の先を見つめる瞳。  すがるように彼が凝視するのは、一筋の地平線の近くに横たわっている竜である。  竜はまるで巨大な岩山そのものの、灰色の塊だ。  彼は、もしくは彼女は、長い首を優美にねじって自分の前足と後ろ足の間に鼻先をつっこんで眠っている。  ゆっくりとした呼吸につれて、全身を覆ったぶ厚い灰色の皮膚に細波が走る。  灰色の皮膚のくぼみに生えた水晶が、風にあおられた草花のように揺れる。 揺れる水晶が空にかかったふたつの月から落ちる光を跳ね返し、竜は色とりどりのきらめきに覆われていく。  ああ、これはなんて美しい光景だろう。  ジェニースは魔法にかけられたような気分で、うっとりと立ち尽くす。  ずっとここにいたい。  これが夢でなければよかった。本当ならばよかった。  本当に竜がここにいたのなら、ジェニースは竜を殺すことだって出来たのに。 ◇ 「賭けをしよう、魔法使い」  濁った人間の声が耳を打ち、ジェニースの襟首をつかんで現実に引きずり下ろす。  ジェニースは薄いまぶたを閉じて、開ける。  なけなしの勇気を奮い起こして現実を見ようと試みる。  辺りは暗い。  石の壁に石の床、床石の隙間に詰まっているのはなんらかの有機物が腐ったもの、そしてついさっき流された人間の血。 「地下は嫌だなあ。……寒くて、臭い」  ジェニースがげっそりとつぶやくと、笑い混じりの咳がわき起こった。  耳障りなそれをとがめ立てるように、ジェニースは傍らの椅子を睨む。  ここはホシン王国王都の地下にある、ジェニースの別荘のひとつ。  彼の権力に見合ったきらびやかな家具も、魔法使いの持つ英知の結晶たる道具たちも、古い知識を記した書物も、何ひとつない。  あるのは狭い立方体の空間と、汚れた石の床の真ん中に設置された椅子だけだ。  黒く重い石で作られ、ひとひとりの力では壊すどころか動かすことも不可能なこの椅子に乗った人間は、もれなく遠からず死ぬ。  用途から言えばこれは椅子ではなく調理台であり、この場は魔法使いの拷問室であった。  さて、現在その上に乗っかっている男を見てみよう。  彼はいささか節足動物を思わせる男である。長身で手足が長く、異常に痩せてぎくしゃくしている。  灰色じみた長い金髪は汚れたぼろきれの束のよう、ほお骨の浮いた青白い顔に浮かぶのは下卑たにやにや笑い。  そこそこ整った造作なのに、美しい印象などみじんもない。死と不景気の気配しかない。  そんな中で、瞳だけが妙に少女じみている。  頭上で淡々と光を零すガス灯の光を跳ね返す、やけに潤んだ菫色の瞳。  実に不愉快な不調和。  この男の名は、コンドラート、職業は自称賢者だ。  それはつまり、九割九分の確率で詐欺師ということでもある。  ジェニースはもう少し前にそのことに気づくべきだった。  いや、実際には気づいていたのかもしれない。  気づいていたのに、気づかないふりをしていたのかも。  ジェニースは自分が手にした人間用工具を見下ろし、肺の底からため息を吐いて訊く。 「で、何か言いました?」 「賭けだよ、魔法使い。賭けをしようって言ったんだ」 「俺、そういうのが好きそうに見えます?」 「いいや、全然だな。あんたは研究所から一歩も出ずに育ちました、って顔だよ。青白くって覇気がない。単純に目が死んでる。死んだみたいに生きてるように見えるよ、魔法使い」  コンドラートは饒舌に、ただしたまに拷問で受けた傷の痛みで舌を引きつらせながら言って、にっこり笑った。  よく光る菫色の瞳が細められると、やせ細った顔に深い皺が刻まれる。  まるでホシンの地表に走る無数の亀裂のようだ、そんなふうに思いながらジェニースは言う。 「大体あってますよ。俺は遊ぶのが嫌いなわけじゃないですが、大抵においては面倒くさい。死んでいる気もしないけれど、生きているって気はますますしない。仕事中に賭けなんてしたい気分になるわけがない。ときに、そのいちいち『魔法使い』っていうのはやめませんか。なんだか嫌味だ」 「嫌味だって? 本当のことだろ、宮廷魔法使いのジェニース? あんたはそう名乗ったし、頭の石が光ってるのがここからでもよく見える。綺麗だな」  コンドラートの水気のある視線が自分の頭を這っているのを知り、ジェニースは半ば無意識に自分の髪に触れた。  ぶう……うん、  そんな響きが耳の奥から伝わってくる。  光はどうだろう。漏れているのか、いないのか。ガス灯の真下ではよくわからない。  コンドラートが触れた柔い金髪の下、さらに皮膚の下にあるのは生まれ持った頭蓋骨ではなく、鉄板である。  その下にはホシンで掘り出された石が埋めこまれており、その石固有の振動でもって本来人間が覚えることの出来る以上の情報を記憶していた。  この地において魔法使いとは、つまり、そういった存在なのだ。  最初の移民の知識をそのまま引き継ぎ、さらに発展させ、生きることに精一杯となった人々にかみ砕いた知識を与え、王に仕える者。  現在では知識の引き継ぎに石の移植手術が不可欠となり、候補者のほとんどは不適合で死ぬ。  ジェニースは選ばれたひとりというわけだが、前途洋々とは言い難い。 「綺麗、ねえ。能天気な感想だなあ。せっかく生死の瀬戸際でつかみ取った石だっていうのに、明日には他人のものになると思うと、さすがにちょっと残念です。死後に、国はありますかね?」 「おいおい、ますます目が死んできたぜ、あんた」 「そりゃそうでしょうとも。俺は明日死ぬんです。『竜を殺せなかった罪』で」  ジェニースは細く長いため息を吐いてから、手の中の工具を床に落とした。 耳障りな音を立ててさび付いた金属は愉快死にぶち当たり、跳ね返ってくるくる回る。  ジェニースは代わりにぶ厚い軍用外套の中に手をつっこみ、これまた重い銃を取りだした。  ホシンでは魔法使いくらいしか持たない武器の登場に、コンドラートの顔が引きつる。 「――なんだ? いきなり魔法使いらしいもん出しちゃって。今度はそいつについてでも語り合いたいって気分なのか?」 「話すのが面倒くさいから、もう終わらせるんです。あなた、結局竜については何も知らないんでしょ? 陛下が俺に『竜を殺せ』って言って切った期限は明日まで。俺は竜の尻尾すら見つけられてはいない」 「そりゃそうかもしれないが、諦めるのが早すぎやしないか! まだ夜明けまでには間があるぜ。最後まで可能性に賭けてみるって気はねえの?」  コンドラートの瞳が徐々に緊張に震えてくるのを見下ろしながら、ジェニースは全くなんの感慨もなく銃口を相手の額に当てる。  そのまま引き金を絞ろうかとも思ったが、結局唇を開いた。 「言ってませんでしたっけ。俺、知ってるんですよ。竜なんて、実在しないって」 「なんだって?」  コンドラートの目が円く見開かれる。まるで緑の森の奥深くにひっそりとたたずむ水盤のようだ。  ホシンには存在しないそんな光景も、ジェニースの石は覚えている。  耳の奥で静かに震え続ける石の振動を感じながら、ジェニースは言う。 「この地で昔から神様みたいに言われてる『竜』ってのは、地表でたまに起こる大嵐のことです。その痕が竜の這いずった痕みたいだっていうんで、誰かが『竜』がいるって言い出したんですよ。で、落盤事故とか、その他でも人間の胃じゃ消化しきれないほどにきつい災害は全部竜の仕業だっていうことにした。で、竜の罪が重くなりすぎると、魔法使いが竜狩りをやる」 「竜はいないってのに? そんなもん……今までの魔法使いは、どうしてたんだ? あんた、ホシンの歴史を全部覚えてるんなら、その方法も知ってるんじゃないのか」  いささか真顔になって言うコンドラートを、ジェニースは少し感心して見つめ直す。  この男、地下深くの酒場で『賢者』なんて自称している詐欺師の割りには、頭は回るようだ。  当たり前の問いを当たり前のように口にすることができている。  だがまあ、そのくらいできなくては、一癖ある地下深くの住人たちを騙して金を巻き上げることすらできないか。  ジェニースは銃を握る手に少し力をこめて答えた。 「今までの魔法使いは皆、竜殺しを命じられたときに自分の運命を知り、七日で今までの仕事をまとめて死んだんです。だけど俺は魔法使いになってそこまで時間が経ってない。まとめる仕事もないから、真面目に竜を探すふりをしてたんですよ」 「じゃあ、俺はそれに巻きこまれて拷問までされたのか!」 「そういうことです。結構盛り上がった気もするし、結局だるかった気もしますね……。取りあえず、ありがとうございます。それじゃ、」 「知ってる!」  力の限り叫ばれて、ジェニースの指がぴくりとする。  今にも発砲しようとしていた拳銃を見下ろしてから、ジェニースは眉根を寄せてコンドラートを見た。やけに光る例の瞳が、じっとジェニースを見あげている。  ふと、そこに恐怖の色がないのに気づき、ジェニースは軽く目を瞠った。  どうしたことだろう。この男は死を恐れていない。  ……いや、そうでもないのか?  体は震え、顔はこわばり、皮膚は青ざめている。ただ、瞳だけが違う色をしている。  ジェニースが菫色の瞳に囚われているうちに、コンドラートが早口で喋り始める。 「いいか、魔法使い。あんたは俺を強引にここへ連れて来た。そして俺があんた流の尋問に答えられなかったから、俺を詐欺師だと言い張ってる。だけどそりゃあ間違いだよ。俺の知はあんたの知とは違うんだ。俺の知は結果なんだよ」 「意味がわかりません」  そっけなく言ってから、ジェニースはまた少し驚く。  この地の全てを知っているはずの自分が、「意味がわからない」だなんて。  そんなことは滅多にあってはならないはずだ。  戸惑いのうちに言葉を途切れさせたジェニースに、コンドラートは椅子に四肢を拘束されたまま、出来る限り身を乗り出して主張した。 「賽子を返してくれ。俺の持ち物の中にある賽子だ。あれが、俺の知だ」 「……まさかあなた、確率こそが神だとか言い出す輩ですか? だとしたら――」 「神なんざ知るか! 俺がさっきから『賭けをしよう』って言ってんのは、あんたから金品を巻き上げたいからじゃない。俺の知は、賭けのときにしか発揮されないから言ってんだ! 俺の知は結果だ、賽子が振られた後に、真実が定まる」  嗄れた声で叫びながらも、彼の目は相変わらず妙な色に潤んでいる。 「意味がわかりません」  ジェニースは言い、少し考えてから続けた。 「しかし、俺が二度も『意味がわからない』と言ったことには、意味があるようにも思います。賽子でしたね?」 「そうだ、早くしろ。じゃない……してください」 「大丈夫ですよ。何をどう言い換えようと、遠からずあなたは殺しますから」  小さく肩をすくめて言い、ジェニースは拷問室の隅っこの作業台へ歩み寄った。  人間解体のためのありとあらゆる道具の脇に、酒場から引きずり出したときコンドラートが持っていたものが積み上げてある。  裏に毛皮を打った上着の隙間からがさつく合皮の財布を引きずり出して中をのぞくと、そこには硬貨など一枚もなく、何かの骨から削りだしたであろう真っ白な六面体がいくつか入っていた。  ジェニースはその中に指を入れようとして、唐突に異様な予感にさいなまれて指を止めた。  おかしい。  これに自分は触れるべきではない。  直感としか言いようのない感覚。  しかしそもそも直感とは膨大な知と経験の上にしか生まれないものである。  陰気な顔をほんのわずかにゆがめて、ジェニースは財布の端を持ってコンドラートの拘束された椅子のところまで戻って行く。  コンドラートはいらいらと踵を鳴らしていた。 「拘束はどうせ、解いちゃくれないんだろ。まあいい。早く、賽子を俺の手に載っけてくれ」  ジェニースは無言のまま、財布をひっくり返した。  手首を肘掛けに拘束されたコンドラートは、どうにか金属製の枷の下で腕をよじって、やけに大きい手のひらに白い六面体を受け止める。そうして虫じみた指を揺らして、いくつかの賽子を床に振り落とした。 「――なんのまねです。くだらない復讐心で俺に拾えなんて言うなら、」 「違う。知を示すためにいるのはこいつだけなんだ」  コンドラートは囁き、指の間でくるりとひとつの賽子を回す。  その白さが目に浸みて、ジェニースはますますぞっとした。  何を言うべきかを見失いかけてコンドラートを見ると、彼は彼で妙に興奮した顔をしている。  もはや彼の顔には恐怖も悲嘆もなく、ただうっとりと賽子を見つめている。  その目を見て、ジェニースは唐突に気づいた。  この男の目が少女じみた印象を与える訳は、この目が恋をしているからだ。  コンドラートの顔の表情はくるくる変わったが、瞳はその全てを裏切って、ずっと何かに魅入られていた。  熱く残酷な縛る愛にがんじがらめになって、そこから出ることができない。  そんなにも必死に、一体何に恋をした?  コンドラートの視線の先にあるのは、賽子だけである。 「賭けをしよう、魔法使い」 「――どんな賭けです」  今度ばかりは邪険にできず、ジェニースは片手に銃をぶら下げたまま訊く。  コンドラートは手のひらの賽子から視線を外さず、歌う声音で告げた。 「この賽子が転がると、直前に俺の告げたことはなんだって本当になる。ジェニースは赤い、って言ったらお前は全身真っ赤になるんだ。俺はそのやり方で、お前に竜を出してやるよ」
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