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「竜を」  ジェニースは口の中で繰り返した。  緩やかに瞬くと、まぶたの裏にちらとさっきみていた夢の竜がよぎる。  灰色にひび割れた皮膚、その隙間から生えた色とりどりの水晶。  コンドラートは続ける。 「そう、竜をだ。賽子をふって竜が出たら俺の勝ち、お前は俺の拘束を解いて自由にしろ。出なきゃ、お前は俺を殺せばいい。  ああ、酷い目だなあ。信じてないのか? お前だって、こいつを持ってみりゃわかる。俺が気づいたのは、ある日の朝さ。  俺は唐突に、この賽子が昨日とは違うもんになっていることに気づいた。理屈じゃない、とにかく気づいたんだ。こいつは賽子に見えて賽子じゃない。だったら何だって? そんなこと知るか!  ただ、以来こいつをふると、世界が変わる。変わるけど、誰もがそれをすぐに忘れる。変化は忘れられ、結果が残る。真実として。その前後を知ってるのは俺だけだ。俺は詐欺師じゃない。運命の支配者だ」 「自称賢者どころじゃない、自称神ですか」  もう呆れた声を出すのも面倒なジェニースに、コンドラートはめげずに笑った。 「まあ、見てろよ。世界に変化が起こった直後は、誰もがその変化を見ることが出来る。忘れるまでには少しだけ間があるのさ。そうでなくてもジェニース、あんたは魔法使いだ。頭の中の石が、世界改変以前の知を保ったままでいさせてくれるかもしれない」  ぶう……うん。  ジェニースの頭の中で石が響く。  いつもよりいささか甲高い響きだ。  いつもと違うのは、よくないことだ。  そんなふうにジェニースは思う。  しかしいつもどおりの常識に従ってこのまま朝が来たら、ジェニースは死ぬしかない。  ジェニースはゆっくりと息を吐き、吸って、体の横にぶら下げていた銃を引き上げながら言った。 「賽子を、ふりなさい」  コンドラートは、ジェニースの言葉を待たずに、手の中の賽子を床へ転がした。  そしてそれが床につくかつかないかのうちに叫ぶ。 「この魔法使いを、」  そこまで言ったところで、コンドラートの頭は半分吹っ飛んだ。  ばしゃっと石壁にかかった脳漿と血が胸を悪くして、ジェニースは泣きそうに顔をゆがめる。  手の中にはかすかに硝煙を上げる銃があった。  頭を半分なくしたコンドラートは、そのままがっくりと頭を垂れて二度と喋ることはなかった。  ジェニースはその場で何度か呼吸を繰り返し、むせかえる血の臭いに吐きそうになって自分の口元をわしづかみにした。  コンドラートが賽子の効果を説明し始めたあたりで、こうなる未来は見えていたように思う。  拘束されて死を約束されたコンドラートが、ジェニースのために竜を出す必要などどこにもない。  本当に賽子で現実を変えられるなら、ジェニースの死か何かを願うほうが現実的だ。  ジェニースはどうにか呼吸を整えると、呪うような瞳でコンドラートを一瞥してから、床を見下ろす。  ゆるゆるとコンドラートの血が広がり始めた先に、白い賽子が転がっている。  触りたくない、ともう一度思う。  触りたくない理由がわからないのが、ジェニースには恐ろしい。  しかし、それ以上に奇妙な義務感も大きくなってきていた。  自分はこの賽子の正体を知らなくてはならない。  自分は明日死ぬとしても、自分の記憶は頭の中の石に記録されるのだ。  この賽子が結局ただの六面体で、コンドラートが狂っていたというのならそれでもいい。  万が一そうでないのなら、この賽子に何か特殊な力があるのなら、そのことは記録されねばならない。  ジェニースはゆっくりとしゃがみこみ、青白い指でもって賽子をつまんだ。  その瞬間、誰かが笑ったような気がした。  声が聞こえたわけではない。  ただ、笑いの気配、のようなものを感じた。  自分でもわけがわからないが、そんな表現しかできない。  幻覚を見始めているのかもしれない。自分の死を間近にして、心身共に疲れ果てている。  幻覚を見てもおかしくはない。  他人事のように考えながら、ジェニースは賽子を床に転がした。  転がしてから、何かを願うのを忘れたことに気づき、ぎょっとして言う。 「本物ですか?」  短い問い。  どうしてそんな言葉しか出てこなかったのだろう。自分でも呆れる。  ただ、とっさに知りたかったのはそんなことだったのだ。  この賽子は本当に、コンドラートが言うようなものだったのか、どうか。 ただそれだけ。  果たして賽子は軽やかな音を立てて転がり、やがて止まる。  特に何が起こるわけでもない。賽子が喋るわけでもない。  ジェニースはしばらく賽子を見つめてから、ほっと一息吐いた。  なんだか、これで肩の荷が下りたような気がする。  賽子はただの賽子だった。ただの八面体だった。それでいいじゃないか。  それで、と、そこまで思ってジェニースは気づいた。  コンドラートが持っていた賽子は、六面体ではなかったか?  ジェニースは灰色の瞳をむいて、床に転がった賽子を凝視した。  結局それだけでは足りず、手を伸ばしておそるおそる拾い上げ、コンドラートの死体の脇でガス灯にかざして見る。  ……賽子だ。  白い賽子。  それは間違いない。  だが、八面体だ。  見覚えのない形だ。 ――こいつをふると、世界が変わる。  コンドラートの声が、頭の中の石で再生される。  世界が、変わる。 「本当に? 本当に、お前には世界を変える力があるんですか?」  そう告げた声は幽かに震えていた。  ジェニースの指の間から賽子は転げ落ち、床に当たってころころと転がり、やがて止まる。  瞬きひとつせずに傍らにしゃがみこんでみると、白い賽子は、今度は十二面体になっていた。  ジェニースは我知らず低くうめいて、自分の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。  なんだか取り返しのつかないことをしてしまった気分で一杯だ。  同時に、今なら引き返せる、とも思う。  目の前の賽子は確かにおかしいが、六面体が十二面体になったところで、実害はない。  頭の石にはちょっとおかしな記録が残るが、それだけだ。今なら膨大な記憶の中で、この賽子のことはちょっとした雑音として処理できるはずだ。 わかっている。  わかっているのに、ジェニースはもう一度賽子を拾い上げていた。  頭の中の石が、少し笑うように歯切れよく震えた。  知を、石が欲しがっているかのようだった。  ひとは石を利用するつもりで利用されているのではないだろうかと思いながら、ジェニースは震える瞳で賽子を見つめ、囁く。 「教えてください。あなたが何者であるか。……これは、言い方が変かな。あなたが世界を変えるものだというのなら、俺を変えてください。あなたのことを知っている俺に、変えてください」
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