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 ひと思いに賽子を転がすと、十二面体はいささかぎこちなく転がって笑い声を立てた。  いや、違った。  笑っているのはジェニースの頭の中の石だった。  石はきゃっきゃ、きゃっきゃとせわしなく笑ったかと思うと、どっと新たな、知るはずのない知識をジェニースの中に吐き出し始めた。  それはジェニースの理解と認識の範疇を超え、ジェニースの全身からは一気に血の気が失せ、視界はばらばらに分裂してまともな像を結ぶことができなくなり、結果均衡を失った体は床へと倒れた。  コンドラートの血だまりに顔をひたしながら動くこともできずに知識の奔流に弄ばれる中、ジェニースがどうにか言語化できた賽子の正体は、以下のようなものである。  賽子はそもそも人間の認識を超えた世界に存在するものの影である。  賽子自身の認識する賽子は六面体などではないのだが、人間の認識できる範囲ではあの形になってしまうのだという。  賽子側はもちろん人間のことを完璧に認識することができ、無性に愛情を感じている。そこに理由はなく、ただひたすらに愛している。  愛しているがゆえに干渉したいと熱望していたが、認識の差を埋めることは難しかった。  人間が認識する形が自分たちと近い賽子の間に身を隠して、人間たちにとって魔法じみたこと――賽子たちにとってはごく当然のことだが、人間たちはその因果関係を認識できない――を起こしていた。  しかしそこにあなたが関わってくれたことは素晴らしいことだった。  あなたの知識を使えば、自分たちはもっと積極的に人間に関わることができるし、人間に認識しやすい形になることもできるだろう。 「……ばかばかしい」  どうにか正気を保つために、ジェニースは言った。  実際にばかだと思っていたわけではないが、我に返るためにはそういう台詞が必要だった。  もがくようにしてどうにか床から起き上がろうとし、三回失敗した後に、ジェニースは拷問室の扉に取りついた。  とにかく外に出たかった。ここよりはマシな空気が吸いたかった。  扉を開けようと必死になっているうちに、ジェニースは部屋が立方体から八面体に変わっていたことに気づき、悲鳴ともなんともつかないうめき声を上げて、斜めの壁にしれっとくっついている扉を押し開けて外に出た。  入り組んだ地下道を抜けて必死に先へ、先へと進むジェニースは、すぐに道が真っ直ぐ過ぎることに気づく。  ホシンの地下はすべて昔からの坑道を改造したものだ。  坑道は蟻の巣のように地中に枝をはり、からまり、ねじくれれて続いていく。  こんなにも真っ直ぐな道などあるはずがない。  ジェニースはよろめき、立ち止まろうとして、まっすぐな地下道の向こうを転がる何かを見た。  硬質な音を立てて、たまにはねながら転がっていく白いものは、あれは賽子なのだろうか。  ジェニースにはもはやよくわからない。  それはおそらくもう百面体か、限りなく完全な球形に近いものになっており、誰かがふることを必要とせず転がっていくのだ。 「……本当に、ばかばかしいな。あんた、万人の望みを叶えるものになるのか? それとも、ふるやつがいないから、誰の願いも叶えないのか?」  ジェニースが薄ら笑って言うと、頭の中に出現した知識が、こちらもきらきらと笑いながら返してくれる。  私は全てを叶えるし、全てを叶えない。  望みが結果として表れた時点でその望みは消え去るわけだから、叶ったと認識する人間は果てしなくゼロに近かろう。  しかし君は違うかもしれない。君は知を持つ者であり、石の助けでもって私の贈り物を抱きしめてくれるかもしれない。  私はそれを期待して君にお礼をしよう。  君の願いは私の望みだ。  君が望むものはこの先にある。  自分勝手で甘い台詞はろくな予感を与えなかったが、ジェニースは先に進むしかなかった。  実を言えば、最初は戻ろうかとも思ったのだ。  しかし真っ直ぐなはずの地下道は振り向いてみると酷く入り組んだ見知らぬ道であった。  それこそ蟻の巣のごとき地下道にはひとの気配すらない。  賽子がジェニースに充分贈り物をしたと納得するまで、この世界はジェニースに贈り物をする他の機能を失っているのではないかとすら思われる。  がむしゃらに戻ってもありふれた幸福や不幸のもとへは到達できないと見て、ジェニースは肺が空になるようなため息を着いて正面を向き、のろのろと歩いていった。  ジェニースが歩くと、先へ行く球体も浮かれて軽く飛び跳ねるかのようだった。  ころころとどこまでも転がっていく球体だけを見つめて進むと、やがてジェニースは強い風を感じた。  気圧の変化であろうか、そう思って反射的に鋭い視線を辺りへ投げると、四方を囲む暗闇に静かな光がまき散らされている。  この冷えた光は星の光だ。  無数にある。  空いっぱいにある。  つまりここは地下ではない。  そう、地下道はいつの間にか終わって、辺りはホシンの地表であった。  本来なら昼は血が沸騰し、夜は全身が凍りつく、ひとが住むには適さないホシンの地表。  その赤茶け、縦横無尽にひび割れた大地の真ん中に、ジェニースはいた。  誰ひとり生身で立ったはずのない場所だったが、呼吸は出来た。  肌は心地よさと、強い風の感触しか覚えなかった。  柔らかな髪が吹き散らされる。  まったく理屈ではない。  瞳が神経質に震えて、理屈にあったものを探そうとする。  しかし見つかるのは誰も歩いたはずのない赤い大地に伸びる一筋の道である。  球体はまだまだ転がっていた。  風に追われるようにして奇妙な道を転がって、どこまでも到達しそうな勢いだ。  いっそこの地を一周でもするのだろうか。  自分はそれについていかねばならないのだろうか。  ジェニースがいささかげっそりとして球体を視線で追っていくと、道の先に灰色の小山があるのが見えた。  小山は随分先だが、ホシンの地表では遙か遠くまで簡単に見通すことができる。  何もかもが鮮明で、多くの小山のごつごつした凹凸も、そのくぼみに密生した色とりどりの水晶も、暇人の描いた精密画みたいによく見える。  真っ黒な空にかかったふたつの月が冷たい月光を落とす中、灰色の小山は緩やかに体を震わせると、足の間から静かに頭を引き出した。  長い首が優雅にもたげられ、水晶が表皮の動きと共に波打ってきらめく。  もう見間違いようはなかった。  そこにいたのは竜だった。  ジェニースの夢みた、そのままの竜だった。  夢のような光景だったが夢ではなかった。そのことが何よりも残酷だった。  どうしたらいいのかわからない、そう思いかけて、ジェニースはぼんやりと瞬く。  石はジェニースの切実に望んだ竜を出現させてしまった。  ならば自分はこれを殺すべきなのだろうか?  しかし、どうやって?  魔法使いは知識階級ではあるが、ホシンの民が思っているような魔法なんて使えない。  魔法を使うのはあの球体。  あの球体のように見えている、人間の認識を超えた何かだけであって、ジェニースではない。  どうしたんだよ、ジェニース。  こっちに来い。  頭の中の知恵が球体の言葉を教えてくれる。  何やら妙に人間くさい声と言い回しを使い始めたようだ。ジェニースは逆らいようもなく重い足をひきずって、真っ直ぐな道を歩いて行く。  夜なのに世界は明るかった。  月がふたつもあるせいだった。  実際ホシンにはふたつの月があるが、同時に出ることは滅多にないはずだった。  ジェニースはちらと片方の月を見あげて、それが異様に小さく、かつ、ホシンに近い場所に浮かんでいることに気づいた。  赤茶けた球体の表面はでこぼこだ。  ホシン地下の大空洞に広がる王宮の尖塔のようなものすら見える気ががする。  ――そういえば自分は、ろくでもない命を下した王を恨んだことがあっただろうか?  魔法使いとして生きる自分の運命を、ひたすらに呪ったこともあっただろうか。  あの王宮をドロ団子のようにくるくると丸め、そのまま空に投げ上げたいと望んだことがあっただろうか?  ジェニースを基準にして人間に干渉することにした賽子は、ジェニースのありとあらゆる妄想をこの世界に描き出す気だろうか?  そこまで考えて、ジェニースはもはや自分が何も考えないようにするか、何も気にしないようにするか、どちらかの道を取るしかないのだと気づき、ひとまず後者の道を選んだ。  まあ、まずは目の前の道を行くしかあるまい。  竜を殺せるかどうかは知らない。  そもそも自分の想像が正しければ、もう竜を殺す必要などないのだ。  だったら取りあえず進んで、あの竜を間近で見よう。  今はそうしたいような気がしているから。  竜を眺めても何をしたらいいのかさっぱりわからなかったら、今度は賽子に自分はどこへ行くべきか訊ねよう。  自分はホシンの神になるのかもしれないし、あっさり狂って終わるのかもしれない。  どちらでもさして変わらない気もする。  ジェニースは道を歩いて行き、世にも美しい竜は長い首をもたげてそれを見守っていた。  ジェニースが疲れた瞳で見あげてみれば、竜は優しく潤んだ菫色の瞳を細めて、かすかに笑ったようにさえ見えた。
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