覆水盆にかえれず

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覆水盆にかえれず

「絶対に賞を取ってやるんだ…絶対に…絶対に…賞を取られるわけにはいかない。」 高校最後の夏、埃臭さと、絵の具の独特の匂いが包み込む教室で私は一人戦っていた。 いつもより熱心になるのは、 高校最後の美術コンクールを控えているからだ。このコンクールに全てをかけている。だから、いつも以上に熱心なのだ。 絵というのは実に分かりやすく美しいものである。 描いた者の、嬉しさ、楽しさ、悔しさ、悲しさ、沢山の感情や、思い、訴えがその一枚に生きている。 私はその一枚の真っ白な世界に私だけの世界が広がっていく様がたまらなく好きだった。 そんな私の気持ちも知らずに 窓の外で蝉が鳴いていた。 幼い頃から絵を描くことが好きだった私は、高校生になってもそれを続けていた。 美術部はあるものの、部員は気づけば私一人になっていた。 元々生徒数の少ない学校であるために、部活動もそこまで盛んではなかった。限られた部活動数の中で、美術部は現在私だけで頑張っている。 きっと私が卒業すれば、この部活も無くなるのだろう。 昔はもっと賑やかだった教室であったが、今では使い慣らした絵の具と一方的なお喋りをするだけの放課後。 昔の記憶をふと思い出しては、我に返り、再び世界を広げる。 気づけば、空はオレンジ色に変わり、 下校を告げるチャイムが校内に響いていた。 もうこんな時間か、と少し焦りを感じながらもあと少し、あと少しだけと、 その腕を動かし続けた。 私の世界は未完成だ、 けして終わってなどいないのだ。 しかし、私には時間がない、 あと少しだけ、少しだけ。 「絶対に完成させる…させないと、させないと…!」 大きく腕を振り上げた時、 「おーい、まだ誰か残ってるのか?」 美術部の顧問である吉野先生がどうやら下校していない生徒の見回りにやってきたのだった。 「すみません、吉野先生、あと少しで完成するんです。あと少しだけなんです。どうかもう少しだけ時間を下さい。」 私がそう訴えると、吉野先生は少し不思議そうに首をかしげた後、 いつもの優しい顔で話し始めた。 「やっぱりいるのか?なぁ、神山。お前のこの絵はまだ続いているのか?ちゃんと描けてるか?」 「夏休み明けの美術コンクールにはなんとか間に合いそうですよ、」 「お前はいつもそこで描いてたよなあ。」 「ここが特等席みたいになってましたからね、いつからでしたっけ?はは。」 「もう来ることはないかと思っていたが、何だかいる気がしてな。」 「顧問なんですからサボらないで下さいよ、私もコンクール控えてるんですから。一応部員は私一人ですが美術部は生きてるんですからね。」 「昔はあんな賑やかだったのにな、あの日からみんな去るように退部していったよ。お前はいつもこの席で下校時間まで頑張って描いてたもんな。」 「この絵にすべてをかけていますからね、私まだ続けたいんです。だから絶対に完成させます。この絵だけは。」 「後少しだったのにな、なんであんな事になったんだろうか。」 「何のことですか?」 「もうあれから2年経つんだもんな。お前も今年で卒業だもんな。時々な、お前がまだそこで絵を描いてる気がするんだ。お前と仲が良かった木村もこの絵を時々見に来るんだぞ。」 「だから何のことですか、私はここにいるじゃないですか。」 「木村がこの絵を見てずっとずっと泣いてたんだぞ、これじゃあ神山が報われないって。一番頑張ってたあの子が一番悔しいのにって。お前のためにずっとずっと泣いていたんだ。」 「だから!何が言いたいんですかっ…」 「ごめんな、神山…お前に賞を取らせてやれなくて。」 その瞬間、 あの日の光景がフラッシュバックする。 「神山さん、今度のコンクール、 あれ、誰を描いてるの?」 「あれ、実は木村さんなんだ。」 「えっ!なんで!?」 「私、木村さんの笑った顔好きなんだ。だからその笑顔をみんなにも見てほしい。だから木村さんの絵を描くことにしたんだ。今まで黙っててごめんね。完成した時びっくりさせたくて。」 「そうだったんだ、すでにびっくり!…賞、取れるといいね、私を描いてくれてありがとう。全力で応援するよ!放課後もずっと付き合う。そうじゃないともっと素敵に描けないでしょ?」 「お、言うね。よーし、ならとことん付き合ってもらうからね!表情筋鍛えまくってやる!」 「ふふ、受けて立とう!」 「あ、私帰り道、こっちだから、また明日!」 「うん、また明日、一緒に頑張ろうね神山さん。」 「ありがとう、私頑張るね。」 そう言って二人は別れた、 ただいつものように別れて、いつものように帰っていたのだ。 信号が青に変わり、私は早く絵を完成させて、隣で笑ってくれる木村さんを想像しながら、横断歩道を渡っていた。 しかし、次の瞬間いきなり体に感じたことのないような痛みを感じた。 視界がひどく歪み、今まで過ごしてきた何気ない日々が映画館のスクリーンに映し出されたかのように早々と流れる。 その瞬間、これが走馬灯なのだと悟った。私は、あの日、死んだのだ。 後少しで完成するはずだった木村さんの優しい笑顔だけを残して、私は死んだのだ。 あの日のまま、時間は止まっていたのだ、 私はもうそこにはいなかった。 ただそれだけだけの事だった。 全てがこの空っぽの体に一気に流れ入ってくる。 私はずっと何と戦っていたのか。 何を誰と一緒に見たかったのか。 誰と一緒に喜び合い、笑いたかったのか。 本当は誰にこの絵を見たかったのか。 「私、この絵完成させたかったです。私、ずっと何と戦っていたのでしょうか…ただ見せたかった、木村さんに、でも無理なんですっ…悔しいっ…悔しいよ先生。」 「うぅ…ごめんなぁ…神山っ…」 たった二人だけの噛み合わない泣き声が時間の止まったままの教室に静かに響いていた。 それが空中分解をしてかすかにカーテンを揺らす。 「吉野先生…?」 落ち着きのあるどこか懐かしい声が聞こえる。彼女は少し驚くも、 ゆっくりと私へ近づいてくる。 「木村か?なんだ、まだ帰ってなかったのか。下校時間は過ぎてるぞ。」 「すみません、何故かもう一度この絵を見たくて、いる気がしたんです。あの子が。」 「そうか、先生もそんな気がしたんだ。」 「先生、あの子のために泣いてくれてありがとうございます、あの子を忘れないでいてくれて…ありがとう。」 彼女はぐしゃぐしゃな顔で、優しく微笑んだ。 ああ、そうだ。 私はあの顔が好きだったのだ。 私が描きたかったものは、本当に見たかった景色は、すぐ近くにあったのだ 。あの絵は決して未完成ではなかった。 空のオレンジ色は消えかかり、まもなく夜を告げる色が少しずつ空を侵食していく。夜がやってくる。やってくるのだ。 私ももうすぐ夜になる。 でももう少しだけ、あともう少しだけ。 どうか時間を下さい。 「私、卒業しても、ずっと忘れません。私の笑顔が好きだって言ってくれたように、私も神山さんの絵を描く姿、大好きです。神山さんの絵も、神山さんと過ごした日々も、 今日はあの子が生前最後に絵を描いた日なんです。」 「そうだったなぁ。あいつはここにいたんだもんな。本当にいい友達を持ったなあいつは。これ、美術室の鍵渡しとくから、最後職員室まで返しにきなさい。」 「いいんですか?あっありがとうございます!」 そう言って、吉野先生は美術部を後にした。 「まだいる?まだこの絵未完成なんだよね、完成させちゃおっか。」 「ありがとう、じゃあお願いね。」 そういって彼女は、 最後に最高の笑顔をみせた。 私は最期にその世界に色を加え、 さよならを告げた。 窓の外ではひぐらしが鳴いていた。
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