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厚の家庭は母子家庭である。
父親のことは知りたいとも思っていないのので詳しく聞いたことはない。
母は小さな居酒屋を一人できりもりしていたが、決して贅沢ができるような稼ぎではなく、厚も中学に進学したと同時に新聞配達のアルバイトを始めた。
自分にかかるお金は自分でできる限り稼ぎたかったからだ。
母からはいつも
「そんなに頑張らなくていい」
と言われていたが、母は居酒屋以外にも昼間はスーパーのレジ打ちのパートをしており、働きづめであった。
幸い学費が安い公立高校にもラグビーの強豪校があったため、進学はそこに決めた。
そして、入学式が終わってすぐに、ラグビー部の部室を訪ね、ラグビー人生が始まった。
ラグビーという競技は、中学までは部活で採用している学校がたくさんあるわけではないので、高校から競技を始める者が多い。
ラグビー素人の厚は基礎練習と補強練習ばかりの日々であったが、初めてラグビーボールを触ってパスとキャッチの練習をしたときのトキメキは今でも忘れない。
基礎練習も補強も嫌いじゃない。
運動神経はもともと自信があったので、技術練習もメキメキと上達した。
でも、一番頑張ったのは戦術の学習であった。
昼休みには図書室でラグビーの戦術に関する本を読みまくった。
高校の図書室では満足できずに、休日には県立図書館に行き、文献を探し、それをコピーして自分なりのテキストを作り上げていった。
2年の春からスクラムハーフのレギュラーポジションを獲得し、3年の選手権は県の代表として全国大会にも出場したことにより、松川大学からラグビー特待生としてのオファーがきた。
大学進学なんて諦めていたのに。
特待生なので学費や入学金は免除となるが、松川大学には学生寮がないため、生活費がかかる。
大学でラグビーはしたい。
でも、母に負担をかけたくない。
厚は高校に入ってからも新聞配達は続けていた。
そのお金で合宿の費用やラグビーシューズやジャージ、テーピングや昼飯代を賄っていた。
高校を卒業したら就職するつもりでいたので、既に製造メーカーから内定をもらっていた。
思い悩んでいた厚に母は、
「大学に行きなさい!
あっくんのために、ちゃんと貯金しよるんよ。だから大丈夫。お金のことは心配せんでええの」
と俺名義の貯金通帳を渡してきた。
その総額にも驚いたが、もっと驚いたのはある程度決まった金額の入金以外に、2,000円とか3,000円とか本当に細かい金額での入金が何度も何度も何度もなされていたことだった。
きっと、日々節約し、少しでも余分ができたら全部この口座に入金していたのだろう。
母への感謝の涙が止まらなかった。
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