1人が本棚に入れています
本棚に追加
新たな一日
「やあ。またこんなところにいた」
彼女は返事をしない。せっかく注文したコーヒーに口をつけることもせず、ぼんやりと窓の外を眺めている。
彼女が愛した人が、かつてそうしていたように。
駅前の喫茶店「汽水域」。彼女はいつも放課後になると、一人きりでここに来る。そうしてただ待ち続けるのだ──記憶の残り滓としてしか存在しない、名前も顔も覚えていない男のことを。
その男のことを、僕はよく知っている。そいつは彼女が自分を愛していることを知りながら、その記憶を無理やりに抹消したのだ。ちょうど黒いインクで、書き損じの原稿用紙を無茶苦茶に塗り潰すように。
ひどい奴だ、と思う。けれどもどんなにひどい奴でも、僕らの創り主であることには変わらない。
おしぼりとお冷やのグラスを手に、マスターがやってきた。僕はいちごミルクを注文する。かつて彼女がそうしていたように。
「なぁ、よかったら飲み物、交換しない? 本当はコーヒーなんて飲みたくないんだろ?」
ふっと微笑んで、彼女は言った。「ありがとう。でも、どうしてかしらね。ここに来たら、これを注文しなくちゃいけない気がするの」
それには答えず、カップをソーサーごと手元に引き寄せる。そしてとうに冷めてしまったコーヒーを、一口啜る。
記憶の残滓。あの蛇は確かそう言っていた。
そんなものが全然気にならなくなる日が、いつか来るのかもしれない。僕らの物語が正しく書き連ねられていけば、いつの日か。
否──創り主なんてのは実はまやかしで、本当は僕らの物語を紡いでいるのは、他でもない僕ら自身なのかもしれない。あるいは僕らを創り出しているという彼もまた、誰かに創られた登場人物の一人に過ぎないのかも。さらに言うなら、その創り主の創り主も。
けれどもそんなことを言い出せばキリがない。いずれにせよ、僕にはそこまで確かめるすべなんてないのだ。確かめるすべがない以上、できることはただ一つ。
力の及ぶ限り正しく、自分の役割を果たしていくこと。
ややあって、彼女が口を開いた。「ねぇ──私が待っていた人って、もしかするとあなたなのかもしれない」
答えあぐね、ごまかすように微笑したその時。マスターが飲み物を運んで来た。おかげで僕は、なんとなく救われたような気持ちになった。
「あなたは、将来の夢ってある? やってみたいことでもいいんだけど」ドリンクにストローをさしながら、彼女が話題を変える。
「そうだなぁ」コーヒーをもう一口。それから、おもむろに口を開く。「実は物語を書いてみたいと思ってるんだ。冒頭だけはもう決まってるんだよ。ある喫茶店の客のところに、幼なじみの女の子が訪ねて来て……」
最初のコメントを投稿しよう!