0人が本棚に入れています
本棚に追加
「ただいま」
外の冷たい空気の余韻が残る玄関で、靴を揃えてフローリングに上がる。
中からは新谷家特性カレーの匂いがした。隠し味にハーブの一種であるクミンの種が入っている。そうすることで、味の深みと香りが良くなるそうだ。
「ただいま」
リビングへの扉を開けて、もう一度叫んだ。
「おかえりなさい」
、エプロン姿でカレーの味見をしていた母が、美しい笑みで出迎えてくれる。
ソファでは双子の弟、葵がやたら分厚い小説を読んでいる。題名はブックカバーのせいで見えないが、大方SFものの奇天烈な内容なのだろう。
とても集中しているようで、私の挨拶にも反応がない。
「今夜はカレーよ、茜も葵も好きだったでしょ」
「うん!」
私は元気よく答えたが、葵は静かに首を縦に振っただけだった。
しかし、母はそれだけで彼のことを理解したようだった。「なら明日も明後日もこれでいいかしら」といたずらっぽく笑っている。
「あっ、手抜きだ、お父さんに怒られるよ」
「いいのよ、あの人、あなた達よりもこのカレーが好きだもの」
そう言って、今度は三つの皿に盛り付けを始めた。
「私も手伝う」
炊き立てのご飯をよそいながら、私は最後に父と食事をした日を思い出していた。
確か一年前、小五の半ばくらいだった気がする。
それからは、父は仕事で重役を任されるようになり、残業増えて帰りが遅くなっていた。
そして、それと重なるようにして私の思春期、基父親嫌いの予兆が始まっていたのだった。
それも相まって、最近は父とろくに話していないような気がする。
「ねえ」
「なに?」
少しの沈黙の後、訊ねた。
「最近、お父さんどんな感じ?」
「お父さんはお父さんよ。このカレーが大好きで、家族思いの優しい人。あの人、茜と葵のことが大好きなのよ」
だから、と付け足して
「今嫌な時期なのはわかるけど、優しくしてあげてね」
と眉尻を下げてささやいた。
「なるべくね」
席につきながら答えた。
「さっ、ご飯食べましょう。ほら葵も席について」
「うん」
分厚い本にしおりを挟んで、葵は食卓につく。
「「「いただきます」」」
三人同時に言ったせいで、笑いが起こる。
「冷めないうちに召し上がれ」
その言葉に、私は大きな一口を頬張った。
最初のコメントを投稿しよう!