墨溜まりに漂う淫靡な貴方

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 ――僕は小金井慎(こがねいしん)です。先生の一番のファンです。  そんな風にすらりと言えたら、どれだけ幸せだろう。あの日以降しばらく先生と顔を合わせることはなかったが、僕は辛抱強かった。  一か月、二か月が過ぎても先生は姿を現さず、僕は先生に会える日を心待ちにして、いつ会ってもいいように完璧な僕で居続けようと努力した。完璧な先生とは程遠いだろうが、僕は少しでも先生に追いつきたかった。  先生は僕と同じ大学生のときに文芸サークルで書いていた作品をとある新人賞に応募し、見事に大賞を受賞した。その作品は『墨溜まりに漂う』と改題し、書籍化、文庫化、映画化、さらにドラマ化もされ、先生は一躍時の人となった。しかし続編として出版した『在りし日の横顔』は正当な評価をもらえず、がらりと作風を変えた『夕闇に死す』では猛烈なバッシング行為に遭い、そのことが原因で筆を折ってしまったと聞く。  先生が表舞台を去ったのは三十半ばであり、それも十年以上前の話である。初めてプライベートで対面した先生は五十を過ぎているように思えたが、実年齢は次の誕生日で四十八だから、きっと僕では想像もできないような苦労をしたのだろう。白髪交じりのパサついた前髪の下の神経質な瞳はどこか怯えていたようにも見えた。先生を労わってあげたい気持ちでいっぱいだった。
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