9. 救世主

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―――…… …トゥルルルルル、トゥルルルルル 電話の着信で目が覚めた。 「…もしもし?ん?…あぁ!富山さんか?どないしたん?―」 電話の話し声。 俺は身体を起こす。 中林さんがこちらに背を向けて、キッチンの横の棚の家電に出ていた。 俺には分厚い毛布が掛けられていて、俺はリビングのマットの上で寝てしまっていたらしい。 明け方まで話して…いつの間にか…。 「わかった!わかった!ほんなら行くから、8時に店来てくれ――かまへんかまへん!晴れの日や!遠慮せんでええ」 中林さんはそう言って家電を切った。 壁掛け時計を見るとか、午前7時半を過ぎていた。 「悪いな。起こしてもうて」 「いえ、俺こそすみません。散々話を聞いて貰った上に…」 「かまへんがな。俺が聞いたんや」 昨日食べたテーブルの上にあるカップ麺の容器を片付けようとする中林さん。 「あっ、俺がします!」 「せんでええわ。洗面所で顔洗って来い。歯ブラシも棚の中にさらぴんあるから使え」 さらぴん? 「5分後に出るで。仕事や!」 「えっ!?」 バタバタと準備を済ませて、中林さんの家を出た。 そのまま帰ることも出来たけど、急ぐ中林さんの後をなぜか着いて行ってしまう。 ずっと上り調子の道を小走りで上がって行く。 69歳の身体には辛いようで、息を上げていた。 思わず後ろから押し上げてみる。 中林さんは笑う。 「おぉ!こりゃ、ええ!楽やな!」 坂道を上がって行き、少し奥まったビルを中林さんが指差した。 「ここや。ここの2階」 街並みに沿ったコンパクトなビルだけど、入り口までが石畳になっていて雰囲気がいい。 中林さんに着いて行く。 小さなエントランス。 ビルの案内板には2階にに『ヘアサロン・56』と書いてあった。 56?…ごじゅうろく?…ごーろく?…ゴロー? ビルの外階段を上り、目の前に出てきたのは黒のシックな扉にシルバーで56の文字が立体的に嵌め込んであった。 中林さんは鍵を出して開ける。 「なんか、かっこいいっすね」 俺が思わず言うと、中林さんは鼻で笑う。 「中もすげぇぞ」 そう言って扉を開いてくれた。 照明が点く。 中を覗くと、それはこだわり抜いた内装だった。 50年代アメリカのレトロな内装は、床には丁寧にタイルが嵌められてあり、壁紙も証明も、セット台もこだわりがしっかり見えた。 カットセット台は1席だけ。 部屋のど真ん中にあって、でかい鏡に向かっていた。 はめ殺しの窓ガラスから光が縦に入っている。 シャンプー台も広々と1台だけ。 そしてなぜか、レトロなバイクが展示されてあった。 中林さんはどこからかワゴンを出してきて、カットの準備をはじめていた。 「…すごいですね」 俺の感想に、中林さんは笑いながら準備を続ける。 「ふざけた店やろ?趣味の塊みたいな場所や」 「ご自宅がごく普通だったんで、意外です」 俺の正直な感想にまた中林さんは笑う。 「自宅は誰にも見せへんやろ?ここはお客さんに見て貰えるからな」 そう話ながら、中林さんは腰にシザーケースを装着した。 「10年ほど前に、それまでにやってた店を若いもんに譲って、ここだけ、自分だけで出来る店を作ったんや。最後の夢みたいなもんや」 俺が側で立ったまま話を聞いていると、扉が開いて、外の空気が入って来たのがわかった。 「吾郎ちゃん、無理言って悪いな」 入ってきたのは中林さんよりも少し上くらいの年輩の男性。 「いやいや、かまへんで」 「娘の結婚式に出るのに、普通でええか思ってたんやけど、なんや気になってな」 男性はそう言いながら中林さんが男性の方に向けて用意したセット台に着席した。 「そら花嫁の父親なんやから、男前にしとかな。娘さん、おめでとう」 男性は中林さんの言葉に照れかくしみたいに、 「若い子入れたんか?」 と、俺を見て問い掛けた。 セット台が鏡の方に向く。 「まぁ、今日は特別や――整えたらいいんか?」 「うん、頼むわ」 タオルを男性の首に巻く中林さん。 俺はワゴンからクロスを取って中林さんに渡した。 手順なら身体に染み付いてる。 店が違っても、スタイリストの動きを見れば次何をするのかわかる。 俺は中林さんの仕事中、アシスタントに徹した。
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