6. 旅支度

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「靴もおむすびも嬉しかったけど……本当は…助けて欲しかった」 泣くものかと堪えて母親に告げた。 黙ったまま俺を見上げていた母親は、目を真っ赤にして、俺に背を向けてふらふらと家を出て行った。 俺はその場に座り込む。 ずっと言えなかったことを言えた。 その夜、母親は帰って来なかった。 俺は居間で母親を待ったけれど、朝方になっても帰って来なかった。 朝には帰るつもりにしていたけれど、母親の帰宅がないまま帰るのは躊躇する。 「寝ないで待ってたの?」 居間の引戸が開き、部屋着姿で入ってきたのは慶次郎だった。 「兄ちゃんはホント、甘いと言うか、優しいと言うか…」 慶次郎は居間を横切り、すぐ奥にあるキッチンの冷蔵庫から牛乳パックを出してそのまま飲んだ、 「そんなんだからあの女に利用されるんだよ」 牛乳を飲んだ口を手の甲で拭い、牛乳パックを冷蔵庫に戻す慶次郎。 「そうだな…」 俺の一言に、慶次郎は苦笑いをして溜め息をついた。 「駅前の飲み屋で飲み潰れて寝てるらしいよ」 慶次郎はそう言いながら、テーブルを挟んで俺の前に座った。 「店の大将からさっき連絡があった」 「そうか」 通常運転で笑えた。 人はそんな簡単には変わらない。 「店…2か月前から閉めてる。客に週刊紙の記者が紛れてたかなんかで、変な噂になるのを気にしたんだと思う」 慶次郎が教えてくれた。 麗美さんのことで週刊紙が嗅ぎ回っていることは知っていたが、まさかうちの実家まで… 「何も話してないよ。大丈夫」 慶次郎のその言葉にホッとした。 部屋着のポケットから慶次郎は昨日の銀行通帳と印鑑を出した。 「これ、返す」 テーブルに置かれた通帳と印鑑。 「貰う義理ないし」 「義理はあるだろ。お前は俺の―」 「もう十分だよ」 慶次郎は俺の言葉を遮るように言った。 「昨日も言ったけど、兄ちゃんが俺の親父を看る義理はない」 「慶次郎…」 「育ててもらっただろ?とか言ったけど、親父が兄ちゃんにしてたことは、やっぱり俺も酷かったと思う…」 慶次郎にはどんな風に映っていたのだろうか。 「だけど、兄ちゃん……。ごめん。俺は親父を見捨てられない。俺には普通の親父だったから…」 自分には優しくて、兄には厳しい父親。 戸惑いがなかったわけない。 「うん…。謝ることじゃない」 「いや。俺は“理不尽”に気づきながらも、兄ちゃんを助けられなかった…」 「慶次郎、それは気にすることじゃない。お前は小さかったし―」 「多少の優越感はあったんだっ!」 慶次郎は声を上げて言った。 「兄ちゃんより、自分が愛されてるって思って……喜んでる自分が居た」 ギュッと目を閉じて下を見た慶次郎。 「そんなこと…人間なら多少あるだろ。気にすんな」 俺の言葉に、慶次郎は今にも泣き出しそうな顔で俺を見る。 俺と真白の家庭環境は、全く違うけれど、姉に劣等感を持って生きてきた真白の気持ちは痛いほどわかった。 真白のお姉さんの瑠璃さんが、優越感に浸っていたかはわからないけれど、両親に誉められて、妹は自分を目指せと言われていたら、悪い気はしないはずだ。 慶次郎の小さな優越感を俺は感じていた。 だけど、それは誰にでも持っている気持ちだと思う。
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