6. 旅支度

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「…おいっ!」 誰かの声で我に返った。 「大丈夫か?寒いんか?」 その声の主は、さっきまで寝ていたはずの初老の男性だった。 こちらに身体をのばして、俺の様子を伺っていた。 俺は手が震えていて、スマホを足下に落としていた。 震える右手で震える左手を押さえる。 静めと願うしかない。 「すみま…せん…。大丈夫…」 必死でそう答えた。 初老の男性は俺の足下からスマホを拾って真ん中の空いている席に置いてくれた。 「…ありがとうございます」 そう言うと、優しい笑みを見せてくれた。 一層泣き声が大きくなった赤ん坊を、母親らしき女性は抱いてデッキへ出て行った。 頭に響いていた泣き声が聞こえなくなると、その痛みは和らぐ。 「これ、食ってみろ」 初老の男性に差し出されたのは、最近あまり見ない板ガム。 躊躇する俺に、 「毒なんか入ってへんから安心しろ」 と初老の男性は笑った。 俺は軽く頭を下げてその板ガムの束から一枚手に取る。 何とか包み紙を広げてガムを口にした。 ハードな板ガムをしっかり噛む。 暫く噛んでいると落ち着いてきたのがわかった。 「アンタ、美容師か?」 初老の男性に問い掛けられて、俺は驚く。 「えっ?」 俺の反応に笑みを浮かべる男性。 「それ、鋏だこやろ?」 俺の右手の薬指を指す。 美容師には鋏だこがある。 ちょうどシザーを持った時に当たる部分。 それを知っているのは同業者か? 自然とその人の指に目がいく。 初老の男性は俺に右手を見せてくれた。 「俺も美容師の端くれや」 その人はそう言ってニヤリと笑った。 年齢のわりに若いオシャレな格好をしたダンディーな親父。 白髪混じりのその髪は、綺麗にセットされていた。 白い無精髭も、綺麗に整えられていて清潔感があった。 気さくに話すその声は低くて、落ち着いた声。 新幹線のフックにハット帽。 美容師だと聞いて妙に納得した。 それは、俺のこの先を左右する大きな出会いだった。
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