8. 四苦八苦

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藤木さんの話が何なのか気になりつつも、いつも通り仕事をこなした。 田村怜奈さんもいつもの時間にやって来て、指名を受けてヘアセットを施す。 「今日はお誕生会やから、いつもより華やかにしてね」 そうオーダーを受けた。 「あっ、お誕生日おめでとうございます」 「店での私のお誕生日であって、ホントの誕生日ちゃうから、別にめでたくも何もないわ」 吐き捨てる感じで言われて、そんなシステムなのかと納得する。 オーダー通り、いつもよりも華やかさをアップさせる為、コテを使って細かく髪を巻き上げていく。 ふと、怜奈さんが見ている雑誌に目がいった。 それは週刊紙で、まさしく萩山麗美の裁判のことが書かれていた。 一瞬静止した俺を、鏡を通して怜奈さんが見ていた。 俺は平然を装って手を動かす。 「この事件知ってる?Charmeのジュニアやった奥さんが、自分のお兄さんの部下に薬飲ませてヤっちゃった話」 鏡を通してこちらを見ながら、怜奈さんは雑誌をもったまま俺に問い掛けた。 「…知ってますよ」 マスクの中で息苦しさを感じながらも、普通を装って答えた。 「こんなん有り得ると思う?大の男が女に薬飲まされたからってえっちしてるくせに訴えるなんて…私、お金目当てやと思うわ」 世間がそんな風に見ているのはわかっていた。 「この萩山被告って、めっちゃ美人やん?絶対その気になってるに決まってるやん?」 怜奈さんの話に、隣のセット台を片付けていた森野さんが、 「あっ、噂の萩山麗美被告。めっちゃ美人っすよね」 と笑いながら言った。 胸がムカムカする気持ち悪さはあったけれど、何とか仕上げてしまおうと急ぐ。 「この人も美容師やったみたいですよ」 「へぇ~」 森野さんが怜奈さんと話してくれるから有難い。 「…すみません、すぐ戻りますね」 俺は一度バックヤードに戻り、従業員トイレに駆け込んだ。 蛇口をひねり、マスクを取って冷たい水を顔に当てる。 浅い息を何度もして気持ちを落ち着かせた。 ハンカチで顔を拭いて、深呼吸をしてマスクをする。 よしっ、と気合いを入れた。 店内に戻る。 「墨さん、カールまだ使いますか?」 女性スタッフから問い掛けられた言葉に「もう大丈夫」と返す。 音がこもる感覚。 「すみません。失礼しました」 怜奈さんに声を掛けてコテを持ち、再開する。 手のあいた森野さんが、俺のアシスタントをつとめてくれる。 「まぁ、でも、薬飲まされたってとこに悪意ありますよね」 話はまだ続いていたのか、森野さんが言った。 「でも気持ちよくなる薬やで?快楽に溺れる」 「興味はありますけど、俺はいらんっすね。何か記憶とんだら勿体無いし!」 「森野さん、むっつりやな」 怜奈さんと森野さんが大笑いする。 「あれ?ノリ悪いなぁ、墨君」 「あっ、マスク君はこんなん興味ないねんな、特殊やから」 「特殊なん?」 怜奈さんと森野さんの会話から二人は俺を見る。 「まぁ、特殊っすね」 そう流した。 「おっ!認めたやん!」 「えっ?何を?」 「いや、俺からは言えませんって」 「はぁ?」 もう、この話から遠ざかるなら何でもよかった。 仕事中だと自分に言い聞かせるしかない。
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