8. 四苦八苦

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その日の仕事中、オーナーが店に顔を出した。 面接以来の対面だった。 視察か何かかと思ったら、すぐに店のバックヤードに入り、店長が呼ばれてから間もなく、俺を店長が呼びに来た。 新規のお客様のカラー中にもかかわらず、店長は自分が代わるからとすぐにバックヤードに行くように言われた。 俺は店長に言われるがままその場を離れてバックヤードへ向かう。 新規のお客様とは言え、途中で人に任せるのはしたくなかった。 そんなことをモヤッと思いながら、バックヤードに入った瞬間、胸ぐらを掴まれて壁に押し当てられた。 一瞬の出来事で構える暇もなく、背中にもろに衝撃が走った。 「お前か、墨恭一郎は」 ドスの効いた声。 相手はオーナーだった。 この人に採用されたことを俺は覚えているけれど、この人は忘れてるのかもしれない。 「うちの店のモットーは、客をご機嫌にすることや」 ジリジリと胸ぐらを捕まれたまま壁に押し当てられ、ちょうどその位置が喉の位置で苦しい。 「出勤前の女の子を気分よくさせて、見送る」 抵抗しようとオーナーの腕をつかんでもびくともしない。 「ええか?それが仕事や。わかったか?」 声にならない声を発すると、オーナーは俺を離した。 解放された瞬間に、壁に凭れたまま息を大きく何度も吸う。 呼吸がしやすいようにマスクをずらした。 オーナーは俺に背を向けたまま煙草を出し、ライターで火を点けた。 そして端に置かれていたパイプ椅子を寄せてそこに座り、こちらを見た。 「話は聞いてるで。アイツは気分屋や、扱いにくいのもわかる。そやけどな、お姫様みたいに扱ってやったら、すぐ機嫌直しよる」 呼吸を整えて壁から離れる。 「上手いこと出来るやろ?二十歳そこらの若造ちゃうねんから」 オーナーは煙草を二口三口吸うと、テーブルにあった灰皿に煙草を投げ棄てた。 「頼むで。売り上げもええんやから、上手いことやっとったらそれなりにええ思いさせたるからな」 オーナーは立ち上がって、俺の側に近付いてくる。 警戒する俺の首もとの襟を正した。 「手荒な真似して悪かったな。期待してんで」 笑顔でそう言い残し、バックヤードを出て行った。 話がよくわからない。 田村怜奈を怒らせたことを言っているとしか覚えがない。 他のお客様とのトラブルはない。 オーナーの言い方からして、田村怜奈本人から聞いているような感じだった。 上手いことって、それはプライベートで田村怜奈と連絡を取り合わなかったことを叱責されたのか? 頭の中が混乱して、その場で佇む。 「墨君」 入って来たのは店長だった。 俺の様子を心配そうに見る。 「何したん?」 「えっ?」 どう説明すべきか。 「オーナー怒らせたら不味いから。ホンマに勘弁してや」 「いや…あの…、多分、お客様から連絡先を頂いてしまって、それに連絡をしなくて」 「なんで?」 なんで? いや、普通だろ。 「ナイトセットの客やろ?」 「あっ、はい」 「適当に連絡して、気分ようさせといたったらええねん」 まさかの回答。 「頼むから、女の子の機嫌損ねんといて」 店長はそう言って俺の首元を見た。 そして床に目をやり、何かを見つけて拾い上げる。 「これ、取れとる」 それは俺のシャツのボタンだった。 「今日はもう帰ってええから」 シャツのボタンを受け取る。 「えっ、でも…」 「ええから!明日からちゃんとしてや」 店長はそれ以上、俺の言葉を聞かずにバックヤードを出て行った。 何となく、自分の置かれている状況が見えたような、見えないような…
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