8. 四苦八苦

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思わずその場に立ち止まってしまう。 「東京から来た腕のいい美容師やと思ってた。やけど、気になって、好きになった。そやのに、私に全然なびかへん。気になり出したらとことん調べる質なんよ、私」 彼女のヒールの音がこちらにゆっくり近付いてくる。 「イデアル出身の美容師やって聞いて、調べたら、イデアルの過去のブログに墨君の名前も写真もいっぱい見つけた。そこで、あの萩山麗美と同じお店やったんやってわかってん」 頭が上手く回らない。 「それで時期とか、様子とか色々アレ?って思って、決定的に思ったのは、裁判の日、お店、休んでたやろ?」 彼女は俺の背後から、俺の正面にやってくる。 週刊紙の内容を全部把握しているわけではない。 だけど、お店でこっそり目を通していた。 内容を読めば、萩山麗美の被害男性Aが俺だと言うことは、イデアルの仲間は気付くだろうし、そこから人伝に広がってもおかしくないと思っていた。 だけど、東京から離れた赤の他人に、少し調べられたからわかるような状態なんて… 俺はこの先、ずっと過去に怯えながら生きなきゃならないのか? 「そんな、怖がらんでも大丈夫やで。誰にも言わへん」 彼女は、俺の前で微笑んだ。 身体が金縛りみたいになる。 「なぁ、ゆっくり話したいわ。部屋に入れてよ」 彼女は俺の肩に触れて、近付いてくる。 そして小声で、 「MDMAの快感、忘れられへんのと違う?私やったら、一緒に使ってあげれるよ」 俺の耳元で囁く。 彼女が唇を近付けて来た瞬間、腹の底からむせかえる。 彼女を振り払ってエントランスの植え込みに吐いた。 何度も込み上げてくる嘔吐感。 「なっ、なっ、なんなん!?」 植え込みに吐く俺の背後で、田村怜奈が声を上げた。 「最低っ!こんな屈辱はじめてやわっ!」 彼女は俺の背中にそう吐き捨て、帰って行った。 暫くして落ち着いて、その場に崩れるように座り込んだ。 右手で額の汗を拭い、その後口許も拭う。 周りを見ると、買ってきた情報誌が落ちていて、路上にはほぼ人は居ないけれど、通り掛かった人間は、俺を不審に見た。 そしてフラフラと立ち上がり、 俺は寮のマンションに背を向けて行くあてなく、 ただ、歩いた。
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