ケンちゃんとわたし

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町外れにある駄菓子屋さんを出発してまもなく、朝がやってきた。 温かい朝日が暑い季節の目覚めを知らせる。 独特の絡みつくような風が髪を揺らす。これが夏なのだと、身体が伝えてくる。 予定の「よ」もない私たちだったが、とりあえず住宅街を巡回する方向から決めることにした。 「まずはこっち方向から見て回ってみようか、にしても新しい住宅ばっかで昔の面影は全くなってるなぁ…数年でここまで変わるんだ…」 少し下がり眉で呟く私に、ケンちゃんが何か気になる様子で尋ねた。 「お姉さんって、もしかしてこの町のこと詳しいの?」 そうたずねるケンちゃんの言葉が妙に胸に響く。何故だろうか、たった今来たばかりなのに、何故この町のことを知っているのだろうか。 私の口は記憶を置いてけぼりにしてひとりでに動いていた。 「詳しいって訳ではないけど、なんだか少し懐かしい感じがして…町外れに住んでるけど、実は昔何度かこの辺にも来てたのかもしれないね。でもどうしてだろう…すごく懐かしいんだよね…ここにきた記憶は全くないんだけど…」 「ふーん、じゃあさ!昔はどんな町だったの?」 興味が湧いたのかキラキラした宝石のような瞳で聞いてくるケンちゃんの好奇心の圧に思わず押されそうになる。子供の無限の好奇心ほどなぜだか緊張するものはないと心の中で少しばかり思った。それと同時に、私の頭の中には大量の?マークが浮かび上がってきた。 何故この町の事を懐かしいと一瞬ではあるが感じたのか、自分自身少し不思議にも思った。 もしかすると幼少期はこの町に住んでたのだろうか。 友人がこの町にいたのだろうか、考えてみると昔の記憶が曖昧になっていることに気づく。 自分は生まれた時からあの町外れの小さな駄菓子屋さんのある家に住んでいだものだと思っていたが、このなんとも言えない胸のモヤモヤ感が妙に後味を残す。 しかし、幼少期の記憶などすべて思えているわけではないのだ、物心つく前に来ていたのかもしれない。 そうに違いないと謎の決断力さえ、謎の自信とともに芽生えてきた。 はっと我に返ると、目の前のケンちゃんが心配そうに私を見ていた。 私はケンちゃんを見つめて、少し申し訳ない気持ちを込めてニッと笑って、なんとも言えない気持ちになりながらも、懐かしさを頼りに私の口は記憶を置いてけぼりにしたまま、悠々と話を続けるのだった。 「昔は、こんな派手やかな屋根の家はなかったし、家の周りはブロック塀で囲まれてて仕切りがあったり、犬がそこらじゅうで日向ぼっこしてたり…してたような気がする。」 「犬が日向ぼっこしてたの?猫じゃなくて?」 「うーん、昔は野良犬が多かったんだよ、でも今は室内犬を飼う家庭が増えたり、法律が厳しくなった事もあってほとんど見ることはなくなったんだ。それに昔は公園じゃなくて空き地が遊び場みたいになってたんだよ。」 「へー!そうなんだ!すごく詳しいんだね!まるで昔この町に住んでたみたい!」 そう言われ、再び謎のモヤモヤ感が襲う。 知りもしない、覚えてもいない、曖昧な記憶に私は少し気持ち悪ささえ感じてきた。頭の中では大量の?マークが今にも爆発しそうになっていた。 相変わらずケンちゃんの興味という名の好奇心は冷めはしないようだ。 純粋で無邪気な少年の綺麗な瞳が私を見つめる。 「もしかしたらそうかも…しれないね、昔の事は忘れちゃった。」 「自分が昔どこに住んでたかも覚えてないの?」 「きっとすごく昔に、ド派手に転びでもして頭を強く打ったから、昔の記憶がちょっとだけぶっ飛んだのかもしれないね。なんだかそんな気がしてきた…いやもうそうに違いない!わははは!!!」 「なにそれーー!!そんなドジな人だとは思わなかったよ!仕方ないから、お姉さんの事は、僕が守ってあげるよ!なんて言ったって、お姉さんはドジだからな!」 ゲラゲラ笑いながらケンちゃんは私の手をぎゅっと握った。 その瞬間、またさきほどの妙な感じが襲う。 途端に、頭の中に走馬灯のように映像がスローモーションで流れる。 誰かと誰かが手を繋いで歩いているのだが、その姿は変にモヤがかかってはっきり認識することができない。 大きなオレンジ色の太陽がその人物を強く染め上げ、やがて、夕日に溶けていった。 何故か私は、その誰かもわからない人影を引き止めなければならないと強く感じて、手を前へと伸ばそうする。 もう少しでその手が届きそうだというところで、聞き覚えのある声に起こされた。 気づけば、さきほど来たばかりの住宅街の光景が広がっていた。 私の横ではケンちゃんが大口開けて必死に叫んでいる姿があった。 「お姉さん!お姉さんったら!大丈夫!?」 「えっ…あっ…うん。大丈夫。」 「いきなり止まったと思ったら、呼んでも反応してくれないし…どうしたの…なっ泣くほどそんなに痛かった?強く握り過ぎちゃった…?ごめんね。」 自分の顔に違和感を感じ、そっと顔に手を当ててみると、冷たさを感じた。 私の目からは涙が流れていた。しかし、その涙がどういう感情から流れ出ているものなのかが、どうしてもわからなかった。 それはただただ流れていた。 ケンちゃんの落ち着かない様子からすると、私はどうやらしばらく涙を流したまま立ち往生していたらしい。 ケンちゃんが申し訳なさそうにうつむいてチラチラと私の様子を伺っているのがわかった。 どうやらケンちゃんは私の手を強く握ったことを気にしているようだった。 大きさ勘違いが生じている事に気付き、ケンちゃんを必死になだめる。 「ごめんね、大丈夫、ケンちゃんのせいじゃないから!ね!ほら!大丈夫だから!」 「ほんと?なら良かった…!びっくりしたよ!いきなり涙流して立ったまま動かなくなるし、声をかけても全然応答してくれないし、ほんとに心配したんだからなー!」 「ほんとにごめんね。自分でも分からないんだ…なんて言ったらいいか…その…わからないけど、わからないんだけどさ、ケンちゃんに手を握ってもらった時少し思い出せたかもしれないの…」 「それってもしかして、昔の記憶のこと…?」 「…どうやら私もまだ何か見つけられてないのかもしれない、きっとそれはとても大切なもので、決して忘れちゃいけない…そんな気がするの。」 私は、自分が何か大切な事を忘れている気がして、必ずそれを思い出さなければならないのだと心の中で直感した。 先ほどのモヤモヤ感がやる気と決断力に変わってゆく。この町に来てから確実に何かが変わろうとしている。私の中の何かが私を呼んでいる気がした。 そんな真剣な私の姿を見て、ケンちゃんは眉間にしわを寄せながら、いつもの明るく元気な声でこう言った。 「なら一緒に探そう!お姉さんの大切な記憶も、絶対に見つけようよ!!ド派手に転んで忘れたままだなんて僕は絶対嫌だ!!!」 「うん、そうだね。心配してくれてありがとう。…私、絶対見つけるよ。見つけなくちゃいけない気がする。それじゃあ気を取り直して、行こっか。」 「うん。行こう!」 再びその不規則な二つの足音は住宅街の奥へ奥へと向かっていった。 次第に辺り一面が、蝉の音楽会となり、さらに風鈴の涼しい音色が蝉の合唱とデュエットを始める。 地面からはウニョウニョした熱の軌跡が陽炎を作り出していた。 ふと、ケンちゃんが足を止める。 「あそこだったんだね、山田さんの家。」 ケンちゃんが指を指す方向には「山田」と書かれた表札がかかっており、 縁側の方に刀を持っていたあの山田さんが見えた。山田さんのすぐ近くには、ケンちゃんと同じくらいの男の子が慌ただしく、必死に話をしている様子が分かった。 隣の山田さんはすごく嬉しそうだ。 その様子を見て、山田さんのドッキリ作戦がうまく言った事を悟る。 「うまくいったみたいだね…!」 「みたいだね、…ケンちゃん?」 ケンちゃんの声が先ほどの明るく元気な声とは違い、とても小さく、そしてか細く、どこか寂しさすら感じた。 ケンちゃんの口から息詰まるような震えた声が発せられる。 「僕もさ、母ちゃんに沢山話したい事があるんだよ、あーあ…早くっ…早く…見つからないかな…」 その小さく孤独な訴えは、ひどく私の胸に染み込み、侵食してきた。 そこには一人の少年がいたのだ。 ただ自分の母親に会いたいだけの一人の少年が。 必死に元の表情に戻そうとするが、うまく戻せずだんだんしわくしゃに歪んでゆくケンちゃんの顔を見ていられず、ぎこちない私はそっと優しくケンちゃんの手を握った。 「ケンちゃん…早く…見つけないとだね、さ、もう行こう。」 「うん…。」 あんなに元気で明るいケンちゃんも、こんな風に泣くんだ。と見慣れないケンちゃんの姿に少し驚きさえ感じた。 ケンちゃんの威勢のいい後ろ姿が、今は、小さく小さく見えた。 この子も普通の男の子なんだと、その後ろ姿を見てただただ思った。 私はケンちゃんの手を少し強めにぎゅっと握った。ケンちゃんは少しびっくりした様子を見せて、やがて、いつもの笑顔を見せ、ニッと笑ってみせた。 「びっくりしたー!心臓飛び出るかと思った!!ちょっと痛い!」 「へへ!痛いくらいがいいんだよ!さあここで出ました!チキチキ問題大会!ケンちゃんに問題です。タコさんの心臓はいくつあるでしょうか?」 「え!?うーん…ふた…二つ?」 「ふふふ…正解は…三つなのだーー!少年よ!これでまた一つ賢くなったな!はっはっはー!!!」 「…お姉さん、お姉さん。」 ケンちゃんが少し気まずそうにしながらこう言った。 「…周りからしたらお姉さんが大声で独り言言ってるようにしか見えてないよ。」 「あっ…」 かすれた気の抜けるような声が情けなく響いた後、一瞬蝉と風鈴の合唱が不協和音になった気がした。
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