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悪魔の囁きと悪魔憑きの少年
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「あれ……?」
暗闇。強いて言えば、少し遠くの方にぼんやりと明かりは見えるが、俺の周囲には光と呼べる物は何一つ存在しない。足元はよく見えないが、靴を通して足に伝わる硬い感触から石畳か何かだろう。近くに川があるのか、水の流れる音も闇に響く。
――何故、俺はこんな場所に?
辺りに俺以外の人間は確認できない。俺は謎解きやミステリーの類は好きだが、好き好んで心霊スポットに近づくような度胸のある人間ではない。ましてや、一人でならば尚更だ。ウチの近所にこんな人通りの少ない場所は無いし、人が誰もいなくなるような時間帯に散歩する趣味も無い。俺は今、自分の置かれている状況が把握できない。
ザッザッザッ
少し遠くで足音がした。何者かがゆっくりと此方を歩いてくる。木の枝か落ち葉を踏みながら近づいてくる。暗闇の中に不気味な足音が反響し、俺の体から一筋の汗が流れ落ちる。不気味な大気が周囲を支配し、恐怖で体はブルブル震え、心臓の鼓動が激しくなる。
ザザッ
背後で急に足音が止まる。俺は即座に振り向いた。
ガツッ
耳のすぐ後ろから聞こえる鈍い音。と同時に感じる重い衝撃と激しい痛み。脳が急に揺さぶられる。突如、視界が停電した様に真っ暗になる。俺は黒に染まった視界の中で自分の体が前のめりに倒れていくのを感じた。
「あれ?」
目が覚めた。視界に映るのは見慣れた自室の天井。スマホがけたたましい音を立てて、俺の覚醒を促す。全身は汗まみれで体に引っ付いた寝間着が気持ち悪い。
「こんな時期に悪夢とはな。畜生!」
俺は独り言で悪態をつき、汗にまみれた寝間着を脱いだ。そのまま風呂場に直行し、下着も脱いでシャワーで汗を洗い流す。風呂場から出て、壁の時計を見ると午前8時半。
ふと、スマホを見ると後輩の七条君から連絡が来ていた。
『N先輩。今日って時間ありますか? 折り入って、相談したいことがあります』
待ち合わせ場所は六角堂近くのカフェ、時間は午前9時半。という内容に、あと1時間しかねぇじゃねぇか!と心の中でツッコミを入れつつ、了承の返事を送信した。
1
「遅いですよ、先輩」
アイスコーヒーのブラックを購入し店内を見渡すと、店の奥の席に待ち合わせの人物は居た。ロング丈Tシャツに黒のスキニーパンツ、カジュアルなキャンバスシューズで茶髪のいかにも大学生な雰囲気だ。しかも、生意気にキャラメルマキアートを飲んでやがる。いつもの黒Tシャツに黒ジーパンの俺とはえらい違いだ。
ここで少し自己紹介をしておこう。俺は推理小説研究会会員で、皆からは「N」とか「N先輩」と呼ばれている。前回は言い忘れたが、俺は京都の某大学の大学生。御所付近にある煉瓦造りのお洒落な校舎といえば分かるだろう。趣味は下手な推理小説を執筆すること以外は特に無い。平凡な大学三回生だ。
で、待ち合わせの人物は後輩で一回生の七条葵。整った顔をしたイケメンで京都の下鴨神社付近にある老舗料亭の跡取り息子。俺は洛外の宇治に住んでいるので、偶に此奴からイケズな発言を食らうが、まぁ根は良い奴だ。
「悪いな。ちょっと、朝から嫌な目にあってだな……」
「何かあったんですか?」
「あぁ、実はな……」
俺は、朝に見た妙な悪夢の事を七条君に話す。一瞬、彼は驚いたような顔をしていたが、すぐに顔の緊張を解いた。
「何だ、そんなことですか。まぁ、でも時期が良かったですね。もし、その悪夢が霊障なら、アレの由来的に厄落としができるじゃないですか」
「まぁ、確かにな。おぉ、そうだ! アレで思い出した」
「何です?」
「遅刻の詫びだ。ほら八つ橋」
そう言って、俺は鞄から袋を取り出す。恭しく差し出すと、後輩は歓喜の声を上げた。
「わぁっ! 大好物をありがとうございます!」
「三十分も遅刻しちゃったからな。受け取ってくれ」
宇治から六角堂まで一時間で来られるわけがなく、結局、俺は遅刻した。普段なら嫌味の一つでも言う癖に、八つ橋の効果だろうか、彼は爽やかな笑みで俺の遅刻を許した。
「いえ、元はと言えば急にお呼び立てした僕が悪いんです。本当にすみません。大学もテストが終わって休日ですからね。先輩も暇かなって思って連絡したんです。それより、この八つ橋どうしたんですか?」
彼の問いに、俺は「はぁ……」と溜息をついた。
「アレを見に、親戚の叔母さんが東京から泊まりに来ているんだよ。調子に乗ってお土産を買い過ぎたみたいで、おこぼれを貰ったのさ。傷みやすいから、ちゃんと冷蔵庫に入れておくんだぞ」
「ありがとうございます! 僕はこっちの方が大好きですし、祖母や祖父も喜びますよ! ところで、先輩の叔母さんは……」
「あぁ、朝起きたら鞄や靴が無くなってたな。多分、朝っぱらから京都観光だろうぜ。ところで……」
俺は一旦、言葉を切ってアイスコーヒーを喉に流し込んだ。店内自体はガラス張りでお洒落な雰囲気だが、ガラス越しに見える六角堂に妙な重厚感や威圧感のようなものを感じた。まぁ、ガラス窓の下に見える間抜けそうな顔の狸の置き物がその雰囲気を和らげているのだが。
その妙な感覚から逃れたかった気持ちと早く本題に入りたいという意図で言葉を切ったのだが、七条君もそれを察したようだ。
「分かりました。本題に入りましょう。でも、その前に、N先輩は僕の妹を覚えていますか?」
「あぁ、花ちゃんか。確か、小学四年生だっけ?」
七条君には妹がいる。小学生の七条花ちゃんだ。クソ生意気な兄の方とは違い、まさしく京女って感じのはんなりした女の子。その美しさは京都で例えるなら地下鉄・市営バス応援キャラクターの太〇萌に匹敵するといっても過言ではない。性格も礼儀正しく、一度、七条君の家に遊びに行ったことがあるが、わざわざ部屋まで挨拶に来てくれた。そのときも、しゃなりしゃなりと姿勢を正して歩く姿は、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という表現がそのまま歩いているようだった。
「先輩、後輩の妹の名前を聞いて鼻の下を伸ばさないでくださいよ。ロリコン&変態ですか? 普通に引くわー」
「失敬な。多少、鼻の下は伸ばしたかもしれないが、そんな言い方はないだろう。あ! もしかして、花ちゃんが可愛すぎるから誘拐されたのか! そこで俺に推理を頼みたいと。よし分かった! 任せておけ!」
「違いますよ。あぁ、もうこの先輩は阿呆なんだから! こんなことなら呼ぶんじゃなかった!」
「何! 宇治からはるばる来てやったのに何て言い草だ! そんなこと言うなら八つ橋は返してもらおう」
「あぁっ! すみません! 悪かったから僕の好物を奪わないでください!」
コホン! と咳が聞こえ、後ろを見ると女性店員が怖い顔をしている。はしゃぎすぎたと思い、俺は体を縮こまらせた。七条君もすまなそうに会釈する。
女性店員が向こうに行ってしまうと、俺はやれやれと溜息をついた。
「ふぅ、怖かった。あんな鬼みたいな顔しなくてもいいだろうに……」
俺が不貞腐れると、七条君はポツリと呟いた。
「鬼ですか。でも、今の僕には鬼のような形相の女性よりも気味が悪いものがありますけどね」
「ん?」
どういうことだ?と俺が訊ねる前に、後輩の方が先に問いを投げかけた。
「N先輩は悪魔憑きって信じますか?」
2
「……何だって?」
「だから、悪魔憑きですよ! 日本では狐憑きっていう言い方もしますけど」
ここまで聞いて、ようやく「悪魔憑き」という日常生活にはおよそ縁の無い言葉の意味が理解できた。
「あぁ、心霊番組とか映画でやってるやつだろ。俺から言わせればナンセンスだな。臨床心理学上における統合失調症とかドラッグによる薬物中毒とか、様々な見方はされているが、人間ではない何かが取り憑いているという非科学的な考え方は俺にはできないね」
俺の言葉に後輩は感心したような目を向けた。
「流石ですね。社会学部の福祉学科で勉強しているだけのことはある。もしかして、テスト勉強の成果ですか?」
「いやぁ、それほどでも。テスト範囲は感染症についてだったけどな」
「あ、でも先輩。俺の中の悪魔が囁いた……とか言ってますよね! あれはどうなんですか?」
「物の例えだよ! わざわざツッコむんじゃない!」
コホンッ!と先程よりも大きな咳払いが聞こえ、俺と七条君は身を竦める。俺はヒソヒソと七条君に話しかけた。
「それよりも、悪魔憑きと花ちゃんがどう関係するんだよ? もしかして、花ちゃんが悪魔憑きに……」
「いえ、違います」
花ちゃんを助けて、俺がヒーローになるという妄想は即座に打ち砕かれた。
「悪魔憑きになったのは、花の同級生なんですけどね。まぁ、最後まで話を聞いてください。先週、花の通う小学校で奇妙なことが起こったんです」
3
「先週、花が平日なのに早く帰ってきたんですよ。どうした?って聞いたら、プリントを見せてきましてね。見ると、今日は全学年の児童を帰宅させること、翌日は休みにするということ、明後日から授業は再開するが給食は中止で弁当持参という内容が書いてありました。どうやら、食中毒騒ぎが起きたらしくて」
「食中毒?」
「はい、原因は栗ご飯らしいです」
「栗は足が早いからなぁ。こんな時期にわざわざそんな物作るから」
「僕が作ったわけじゃないんだから、文句は学校側に言ってくださいよ。そのプリントだと全学年に被害が及んでいるって書いてありましたが、何故か花はピンピンしてるんですよね。花の話だと、花のクラス全員が無事だったらしいんです」
それは凄い奇跡だ。俺は素直に驚いた。
「凄いな。余程、クラス全員の日頃の行いが良いか、危機管理意識が高いんだな」
俺の言葉に七条君は首を横に振った。
「違いますよ。ここからが悪魔憑きの話なんですが、花のクラスに我妻君って男の子がいるらしくて」
「名前は善◯じゃないだろうな?」
俺の冗談に七条君は渋い顔をした。
「先輩、茶化すなら帰りますよ。とにかく、その男子が事の発端なんですけどね。栗ご飯を含めた給食が皆に行き渡り、いただきますを言おうとした瞬間に我妻君が騒ぎ出したそうです。何かに気付いたようにハッとなって『皆、食うな! 食べたらあかん!』と叫んだらしいんですよ」
俺は首を捻る。
「確かに急に叫び出すという点では悪魔憑きに共通しているけど、それだけだと悪魔憑きとは言えないだろう。 単に栗ご飯が気に入らなかったとか、ふざけて叫び出したとか色々と考えられる」
俺の反論を、七条君は手で制した。
「まぁ、待ってください。担任の先生や周りの友達も先輩と同じように考えたそうで、我妻君にどういうことかを聞いたそうです。そしたら『お兄ちゃんに聞いた』の一点張りだったそうで。終いには我妻君が泣き出して話し合いにもならなかったので、ガキ大将ポジションの男の子が『ほっとこうぜ。どうせ目立って良い気になってるから、注目を集めたいだけだよ。もう食おう』と言ったのを契機に食事を始めようとしたらしいんです」
「まぁ、当然の反応だな」
「その直後でした。隣のクラスの先生が教室に慌てて飛び込んできたのは。その先生の話で、既に給食を食べた生徒全員が腹を下したり嘔吐したことを担任の先生は知りました。それで、児童は急いで帰宅させられたんです。その翌日に保健所が調査に来て、栗ご飯の栗による細菌性食中毒だったことが判明したらしいです」
俺は驚いて身を乗り出した。
「じゃあ、その我妻君は……」
七条君もゴクリと唾を飲み、数秒の沈黙の後、俺が考えていたことをそのまま口にした。
「えぇ、我妻君は予言したんですよ! クラスの誰もが気が付かなかった栗ご飯による食中毒を!」
「でも、それだと予言者って例えが適切じゃないのか?」
予言者だったら、むしろ悪魔よりも神様に縁がありそうなものだが……。
「まだ話は続くんですよ。その明後日から授業が再開して、クラスでは我妻君が喝采を浴びたそうです。例のガキ大将も『すまん』と土下座して謝ったとか。その時に花が『何で分かったの? お兄ちゃんって誰?』って聞いたそうなんですが……」
「ちょっと待った! 『お兄ちゃんって誰?』っていう質問は何か変じゃないか?」
俺の唐突の問いに、彼はニヤリと笑みを浮かべた。
「流石、先輩。気付きましたね。我妻君の家と僕の家はある程度のつながりがあるから知っているんですけどね。我妻君は老舗の和菓子屋の跡取り息子で一人っ子。兄なんかいない筈なんです。我妻君は花にそう聞かれたとき『知らん。そんなこと言った覚えはない!』と怒鳴り、俯いてしまったらしいです。その後は何を聞いても答えてくれなかったと言ってました。以上が事の顛末です。先輩はどう思います?」
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「どう思いますって言われてもな……。そもそも、それの何が悪魔憑きなんだよ。我妻君が愚図ったから花ちゃんのクラスだけ栗ご飯を食べなくて、被害者が出なくて良かったじゃないか。ハッピーエンドだ」
俺の返答に七条君はじれったそうに頭を抱える。
「仕方ない人ですね。ちゃんと説明しますよ。一応、僕なりに我妻君の食中毒予想事件について考えましたからね。我妻君に憑りついた存在しない筈の『お兄ちゃん』が悪魔だと考えると説明がつくんです」
キャラメルマキアートを一口啜り、七条君は語り出した。
「まず、先輩は悪魔憑きに関して精神疾患だとかドラッグだとか言ってましたけどね。バチカンでは悪魔の存在は認知されているんですよ。国際エクソシスト協会という組織も悪魔に対抗するために創設されています。そのエクソシストも精神疾患や脳の病気の可能性を排除していないんです。それでも病気では説明がつかない悪魔憑きは存在し、本人が知る筈がない国の言語や、未来の事柄、他人の秘密を知っているという現象が起こるらしいです。今回の件にピッタリと当てはまるじゃないですか! 敵に勝つという意味で勝ち栗は縁起の良い食べ物とされていますから、憑りついている我妻君の体内に取り入れたくなくて食中毒の菌を繁殖させたんですよ! それに、事件の後の記憶が無いことからも悪魔憑きと言えます。実際、悪魔に憑りつかれた人は憑依中の記憶がありませんからね。さらに『お兄ちゃん』という言葉についてですが、我妻君が『鬼さん』という意味で伝えたかったとしたら? 誰もが真っ先に思い付く悪魔のフォルムは、人型で頭の角に鋭い爪と牙です。鬼のフォルムに酷似してますから我妻君がそう伝えたかったとしたら納得です。我妻君は滑舌が悪く、物事を説明したり理解するのが苦手な子供でしたから。まだ小学四年生なので仕方ないですけど」
七条君が長い説明を終え、ふぅと息を吐くとキャラメルマキアートを全て飲み干した。しゃべり過ぎて喉が渇いたのだろう。
「成る程ねぇ。いつもの強引過ぎる推理だけど、エクソシストについての知識には恐れ入るよ。詳しいな」
素直に感心の意を述べると、七条君は照れくさそうに笑う。
「いや、偶々です。先週、西洋史の論述式のテストだったんですけどね。外がアレの影響でうるさかったから、イライラして勉強が手につかなかったんですよ。そこで自分の興味のある魔女狩りとかカトリック教会の分野を調べまくってたら覚えちゃったんですよね。この範囲の知識は自信ありますよ! いやぁ、やっぱり知識を披露するのは良いもんですねぇ。感心されて良い気分です!」
いつもの厭味ったらしい自慢話が始まる。ちょっと褒めるとすぐにコレだ。呆れた俺だが、何だろう。今の台詞に何か引っかかるものを感じた。俺が眉間に皺を寄せて考え込んでいる姿を見て、七条君はへらへら笑いながら俺の顔を覗き込む。
「どうしたんですか? あぁ、成る程。僕の先程の推理に脱帽した上に知識でも後輩に負けて悔しいんですね。そんなに機嫌を悪くしないでくださいよ。ほら、先輩のくれた八つ橋、一個あげますから」
「おい、ここのカフェは持ち込み禁止なんだぞ。勝手に出したら……。あれ?」
「あっ、先輩! どういうことですか! 謀りましたね!」
俺が渡した八つ橋の入っている筈の袋。しかし、袋から出された箱には京都で有名な八つ橋ブランドの聖〇院ではなく、「九里屋(くりや)」と書かれている。箱を開けて中を確認すると、どうやら中身は栗羊羹のようだ。
「別に謀ったわけじゃない。朝は慌ただしかったからな。袋を間違えたみたいだ。すまん」
「いえ、これも嬉しいですけどね。縁がありますね」
「え?」
縁があるという言葉に俺は思わず聞き返す。七条君は箱を眺めながら説明してくれた。
「この『九里屋(くりや)』はさっき話した我妻君の家ですよ。中京区に店がありましてね。栗を使った京菓子や和菓子で有名な由緒正しき老舗なんです。ちなみに、九里というのは我妻君の母親の旧姓ですよ。母親が跡取りで、父親の我妻さんが婿養子なんですよ」
カチッ
また、この感覚だ。パズルピースがピッタリとはまる感覚。何だろう。俺はこの話をどこかで聞いたことがあるような気がした。妙な既視感。眩暈。視界がグラッと揺れる。
「先輩! N先輩!」
気付くと七条君が俺の体を揺さぶっている。
「大丈夫ですか? 目の焦点が合ってませんでしたよ」
いつもの生意気そうな雰囲気はない。本当に俺のことを心配しているようだ。
「あぁ、大丈夫だ。それよりも気が付いたことがある。大至急、花ちゃんに確認して欲しい」
そして、俺は七条君にあることを告げた。七条君は即座に否定する。
「そんな……、そんな大事なことが僕の耳に届かない筈はないですよ!」
俺はどうしてもと頼み込み、七条君は渋々、花ちゃんに電話を掛けた。すぐに繋がったようで七条君は慌ただしく話し出す。
「なぁ、花。もしかして、……なんてことあった? ……え? 本当にそうなの? じゃあ、何で言ってくれなかったんだよ! ……え? 話そうとしたのに、兄さんがテスト勉強の邪魔するなって怒ったって……。あぁ、あの時か……。うん、分かった」
がっくりと肩を落として電話を切った後、俺を見た。化け物でも見るような顔で。
「何であんなこと分かったんですか? 今はまだ、老舗の繋がりでしか知りえないことなのに……。ましてや、宇治に住んでいる先輩には絶対に知りえない筈……」
俺はまだ半分程残っているブラックコーヒーを啜った。お洒落なカフェの中、二人の間だけ緊迫した空気が流れる。俺はこの一言を放った。
「推理の悪魔が俺に囁いたのさ」
5
「さて、まず整理してみようか。今回の事件だが、一つは我妻君の予知。二つめは居ない筈の『兄』の存在。三つめは我妻君の『記憶が無い』という発言。君の話だけだと奇妙に見えるけど、僕等の居る環境を含めて考えると簡単に答えは出る」
七条君は怪訝そうな表情を浮かべた。
「前回の事件の時もそうでしたけど、今回も『京都』が関係しているんですか?」
俺は人差し指を左右に振る。
「その情報だけだと足りないな。『現在の季節が夏』という事実も付け加えなくてはならない」
そう、またしても冒頭で紹介し忘れてしまったが今は7月中旬で夏真っ盛りだ。勿論、手掛かりは幾つか示されていた。
まず、俺の飲んでいるアイスコーヒーや七条君の服装からも特定は出来る。どちらも、少なくとも秋や冬ならば絶対にありえない行為だ。京都は盆地なので、気温の上下が他の県に比べて激しい。どんな物好きな奴でも、冬にアイスコーヒーやTシャツ一枚は無いだろう。
それに八つ橋についての場面からも分かる。一般的に八つ橋と言えば硬い焼き菓子だが、俺と七条君の会話を思い返して欲しい。
「傷みやすいから、ちゃんと冷蔵庫に……」
「祖母や祖父も喜びますよ」
後者の七条君の台詞で、普通はこういう場合「家族が……」と言うのではないだろうか。祖母と祖父に限定したのは老人が食べやすい菓子ということ。故に、俺の渡した品は「生八つ橋」ではないかと推測できる。しかし、生八つ橋であっても冬ならばわざわざ冷蔵庫に入れる必要はない。それを考えれば前者の俺の台詞も、物が腐りやすい夏であるが故だと分かる。
栗ご飯に関しても、俺が
「こんな時期にわざわざ……」
と言ったことからも分かるだろう。栗ご飯の季節は本来は秋。季節に合わないものを作って、食中毒を起こしてりゃ世話ないよという意味で言ったのだ。それに、食中毒は統計的に夏が細菌性のものが多く、冬はノロウイルスによるものが多い。今回の食中毒は細菌性。公衆衛生学の知識がある方は、ここから夏だと推測できたかもしれない。
そして、度々台詞に出てきた「テスト期間」。基本、大学は前期と後期に分かれており、その節目に試験を行う。夏休みは試験のすぐ後だ。つまり、俺達はテスト期間を終えたばかりで夏休みを楽しんでいる大学生ということ。
以上、「現在の季節が夏である」ことの証明終了。
「でも、先輩。『京都の夏』が今回の事件にどう関係してくるんですか?」
「あれ、気づかないか? 俺たちも度々、話題にしていたじゃないか。アレだよ」
「あぁ、何だ。そんなまどろっこしく言わないで、ちゃんと言えばいいじゃないですか。祇園祭って」
夏の京都の風物詩、祇園祭。八坂神社のお祭りで、平安時代に霊や疫病を鎮めるために行われた御霊会が元となっている日本三大祭りの一つ。7月1日から31日までが祭りの期間であり、山車である山や鉾が建てられることも含めて、この時期は京都が騒がしくなる。
俺の叔母さんが東京からわざわざ泊まりに来ている理由もコレだし、冒頭の悪夢の話を七条君にしたときに、「霊障なら、アレの由来的に厄落としができる」と言っていたのも祇園祭のことだ。この時期になると、京都人なら、わざわざ固有名詞を使わなくても話の流れで理解できてしまう。だから、ずっと「アレ」と呼んでいた。
「で、祇園祭が悪魔憑きとどう関係するんです?」
先程と似たような台詞を言う七条君。少し勿体ぶり過ぎたせいかイライラし始めている。
「そう、急かすなよ。ちゃんと初めから説明するから。まず、我妻君の家が中京区の由緒ある老舗ということから推理したんだが、当たっていたようだね。我妻君が今年の『長刀鉾の稚児』だと」
17日の山鉾巡行の際に、巡行の先頭に立つ長刀鉾。神様の使いとして、それに乗ることが出来る稚児は、京都の四歳から十歳くらいまでの子供から選ばれる。経費に1000万円以上かかる為、由緒ある家の子供が選ばれやすい。
「ガキ大将が『どうせ目立って良い気になってるから』と言っていたと聞いてね。君の話の中では我妻君がチヤホヤされたのは食中毒事件の後だろ。少し、引っかかったんだ」
「僕は花に聞いた通り、話しただけですが……。じゃあ、それって給食の時に騒いで悪目立ちした事を皮肉った台詞ではなかったんですか?」
成る程。そう考えたわけか。
「だったら『良い気になって』という台詞は出てこないぜ。そこで、俺は考えた。我妻君はこの騒ぎより前にも何かで騒がれた人物じゃないかってな。まぁ、それよりも先に『栗ご飯騒ぎ』の謎が解けたから確信したんだけど」
「どういうことです?」
「七条君は祇園祭の風習を知っているかい? キュウリに関する風習だ」
俺の問いかけに、七条君は少し苛立ったように答えた。
「そんなの常識ですよ。馬鹿にしないでください! キュウリの切り口が八坂神社の神紋に似ているから恐れ多いってことで、祭りの関係者はキュウリを食べない風習でしょ。何で、そんな話をするんですか?」
続いて、俺はある事実を確認する。
「我妻君の家は何ていう店だっけ?」
「ちゃんと、話を聞いてなかったんですか? 『九里屋』ですよ! 九里……
あぁっ!」
ようやく察しの悪い後輩も気づいたようだ。
「そう! 九里は『くり』とも『きゅうり』とも読める。我妻君は物事を理解するのが苦手な子だったんだろ? そして、彼は長刀鉾の稚児だ。つまり、祭りの関係者。さて、我妻君の『お兄ちゃん』発言だがね。彼は自分のお兄ちゃんと言ったわけじゃない。ちゃんと、祭りの関係者の中に『お兄ちゃん』は居たんだよ。ほら、鉾町の男子は囃子方として鉾の上でお囃子を奏でるだろう。おそらく、その中の一人に注意されたんだ。だが、小学四年生に『神紋に似ているから』という理由は少し難しすぎた。そこで、彼は知識の定着の為に自分の店の名前を利用して『きゅうりを食べてはいけない』ということだけを覚えようとした。しかし、さっき言ったように『九里』は二通りの読み方がある。さらに、その家が栗を使った和菓子が有名ということも災いし、『栗を食べてはいけない』という間違った知識を覚えてしまった訳さ」
あまりの真相に七条君はあんぐりと口を開けた。
「じゃあ、我妻君は別に予知をした訳じゃなかったのか……。っていうか、そんなくだらないことだったんですか!?」
「くだらないことはないさ。本人は必死に稚児の務めを果たそうとしたんだよ。さて、最後に我妻君が『記憶にない』と言ったことだが……」
ゴクリと七条君が唾を飲み込む。果たしてどんな真相が隠されているのかと期待しているのだろう。よろしい。俺の推理はここからだ。
「俺は最初に花ちゃんがどんなに可愛いかを力説したと思う」
「いきなり、何言ってんですか? 急にロリコンを発動しないでくださいよ!」
当たり前の反応だが、七条君が周囲に憚らず怒鳴り声を上げる。
「まぁ、待て。君の話ではこうだったね。騒ぎの翌日は一日休校、その翌日に花ちゃんが我妻君を問いただしたら彼は黙ってしまったと。そして、君の家と我妻家は旧知の仲。この事実から推測するに……」
「何ですか? くだらない話なら帰りますよ」
「……我妻君は花ちゃんのことが好きなのだろうね」
後輩の手から、空になったキャラメルマキアートのカップがコトンと床に落ちた。
6
「は? はぁぁ!?」
カフェに七条君の絶叫が響き渡る。
「お、おい! ちょっと、落ち着けって」
「これが落ち着いていられますか! 僕の妹をあの鼻たれ小僧が? 誰が渡すかぁぁぁ!」
俺が後輩の口を手で封じようとした時、後ろに殺気を感じる。振り向くと女性店員の修羅の如き形相が……。周囲からも暴風雪の如き極寒の視線が浴びせられる。
「外に出ようか……」
「そ、そうですね……」
俺たちはカフェを後にし、ガラス張りの扉からそそくさと退散し、六角堂へと場所を移した。
「で、どういうことなんです? あの小僧が僕の妹を好きだという根拠は」
中央のベンチに座るなり、後輩は鋭い声を俺に浴びせる。
俺は一つ溜息をつき、推理の続きを語った。
「だって、我妻君は手柄を自慢しなかったじゃないか。もし、偶然だったとしてもクラスの皆を救ったんだぜ。実際に皆にチヤホヤされてるし、ガキ大将だって謝ってきた。でも、彼は一切、真相を語ろうとしない。それどころか『記憶にない』とまで言っている。君の説明だと真相を問い詰めたのは花ちゃんだったね。おそらく、彼は休みになった日に両親に自分の勘違いを教えられたんだろう。『祇園祭の時に食べてはいけないのはキュウリであること』をね。君がさっき言った通り、知識を披露して自慢できたら、さぞ気持ちが良いことだろう。だが、逆に間違った知識を披露してしまったら、それは顔から火が出るほど恥ずかしいだろうね。ましてや、好きな女の子にはそんな真実は口が裂けても言えまい。彼が顔を伏せたのは赤くなった顔を見られたくなかったのさ」
「……」
七条君は黙ったままだ。そういえば、ここは鉾町にわりと近い。遠くからお囃子の音色が微かに耳に届く。
「七条君、そういえば今日は何日だっけ?」
俺の質問に、後輩は不貞腐れたような無念そうな顔で答えた。
「17日ですよ……。先輩」
テストが忙しくて、日にちの感覚がズレていたせいで昨日の宵山と一昨日の宵々山をすっかり忘れていた。
「先輩は祇園祭で厄を落とすつもりだったんですよね……?」
「あぁ、そうだな。昨日の悪夢を……」
「やめた方がいいですよ。祇園祭にご利益なんかありません。むしろ、厄を呼び込みます」
そうボソリと呟き、俺にスマホの画面を見せた。SNSのプロフィール画面のようだ。
「HANAがプロフィール画像を変更しました」
そこには見るからに巨大な山車の中から顔を出し、金の冠を頭に光らせて、威風堂々とした姿で立っている稚児の姿があった。まるで、「もう何も怖いものはない」というように毅然とした表情をしている。プロフィールの一言には
「クラスのヒーロー、ありがとう!」
の一言が……。
「うわぁぁぁぁぁ!」
七条君の絶叫が六角堂全体に響き渡り、近くに居た二羽の鳩が羽を広げて飛び去っていった。
(第二稿 終幕)
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