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放課後、またあの疲れに襲われた私は、明梨たちと一緒にいるのが何故か辛くて、一人で教室を出てぼんやりと校内を歩いていた。
突然なにかにぶつかって、思わずよろけた。一体何とぶつかったのかと周りを見ると、私と教室のドアの間で生徒が一人尻もちをついていた。どうやら彼女が教室から出ようとした時、タイミング悪く私が通りかかったらしい。そして新教室棟まで来ていたことに初めて気がついた。随分ぼんやりしていたようだ。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
慌てて声をかけた。相手が顔を上げた瞬間、私は声を失った。
顔を上げたその人は、あの先輩だった。一瞬何が起こったのか分からなかったのか、少しきょとんとした顔をしていた。
「……? あの……?」
「――えっと、本当にすみませんでした。私がぶつかってしまって……」
なんとか気持ちを落ち着かせようとしながら、先輩に声をかける。しゃがんで、先輩が取り落としたらしい本を拾った。
「あれ……これって……」
『春にして君を離れ』。クリスティーの本だ。
「――この本、知っているの?」
「えっ? あ、はい。ちょうどこの前読んだばっかりで。……あの、クリスティー好きなんですか? 私好きで最近よく読んでるんです」
とっさに口走っていた。
「そうなの……? わたしも好き。……ねえ、よかったらそこの教室で話さない?」
先輩は少しはにかみながら、自分が出てきた教室を指さして言った。
「え、い、良いんですか?」
思わず聞き返してしまった私に、もちろん、と言って微笑む先輩。私はそのまま先輩の後について教室へ入った。
最初はお互いぎこちなかったけれど、だんだん打ち解けて話せるようになった。
初めて読んだ作品、一番好きな作品はどれか、どのシリーズが好きか、といったクリスティー作品の話を暫くした後、古典ミステリの話(これは私は専ら聞く専門だった)、他によく読むジャンルなど。
先輩の名前は朝露琴音といった。聞けば、この辺りの教室は部活等でも滅多に使われないので、先輩はよくここで一人本を読んでいるのだそうだ。偶に遠くから微かに生徒の声が聞こえてくる以外、しんと静まり返った新教室棟の隅にある教室。窓からは色づきはじめた紅葉が見える。先輩にぴったりだと、思った。
「あ、もうこんな時間……!」
気がついたら随分と時間が経っていた。帰り道頼まれていた用事があったことを思い出し、慌てて帰る準備を始める。
「あの、突然お邪魔した上に、急に帰ってすみません」
「……ううん、いいの。こちらこそ引き留めちゃってごめんなさい」
「いえ! その……また、ここに来ても良いですか?」
思い切って訊いてみた。まさか先輩と話せるなんて思ってもみなかったから、今日話せただけで本当に嬉しかったけれど、できればもっと知り合えたら、と思ってしまった。
「いいの……? ありがとう。放課後は大抵ここにいるの。よかったら……」
ふわりと微笑んだ先輩にほっとして、教室を後にした。
下校中も、帰宅後も、まだ夢心地だった。先輩のことばかり考えていた。
翌日の放課後、二日連続でお邪魔するのは迷惑かなとも考えたが、思い切って行ってみると、先輩はそこにいた。私の方へ振り向くと笑顔を向けてくれた。
それからというもの、私は殆ど毎日のようにあの教室へ通った。
ある日は先輩と読んだ本の話をして、ある日は課題が終わらないので先輩に見てもらいつつ課題をやって、またある日は二人黙って読書をして。偶に二人で図書館に行くこともあった。
先輩はあまり自分のクラスのことを話さなかったし、私のことも訊いてこなかった。クラスで友達と過ごすのに疲れていた私には有り難かった。
先輩と二人きりで過ごすのは心地よくて、あの疲れも苦しさも、いつの間にか無くなっていた。
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